夫婦は春の縁側で





















桜がすっかり散って、タンポポがふんわり綿毛と元気な黄色を並べた日、
アンナが学校から帰宅すると、
ぽかぽかと温かな日の差す縁側に、一人
見知らぬ老人が座っていた。

次の瞬間、「葉」と、アンナの口から実に自然にその名前が飛び出した。

自分で自分が何故そう言ったのか驚いている間に、彼は振り向いて、ハッとした顔で、アンナを見つめた。





老人は麻倉葉だった。

背ばかりひょろひょろと高くて、顔中に皺があって、
どこからどう見ても老人だったけど
アンナを見ては、目を細めて若い頃の面影そのままの笑顔をして
今より低い葉の声で、葉らしい台詞をしゃべった。
彼は紛れもなく麻倉葉だった。


けれど、アンナと身長7cm(中学三年春・身体測定調べ)しか変わらない、中学生の麻倉葉は、
今頃はまん太の家でテレビゲームをしてるはずで、
昼休みに恐る恐る、「今日は放課後、遊んで来ていいか」と声をかけてきた。
睨んだら縮み上がったけど、ため息ついて頷いてやったら飛び上がった。
彼とはつい先ほど別れたところ。
夕方には、夕飯の食材を買って帰ってくるはず。
それもまた、紛れもなく真実だった。


老人・麻倉葉は、数十年後の未来から来たと言った。
未来には、そういうすげえ力を持ったシャーマンがいるんだとか何とか。
これだけ聞いたらひどく突飛な話だが、アンナは自分でも驚くほど、その話をすんなりと受け入れられた。

だってこの老人が、今の葉と全く同じように、ボケーッと庭を眺めたり、
立ち上がる度にどっこいしょとか言う姿ときたら、
老体にあんまりしっくりきてるもので、まさに今の葉の完成版。
疑いようも無かった。


そんな訳で、この昼下がりの短い時間を、アンナは70以上も歳の離れた夫と、縁側で一服することになったのだ。











「葉ならいないわよ」

入れてやった日本茶をずいと差し出して、アンナは続けた。

「夕方には帰ってくるはずだけど。遅くなるかもね」
「ああ、別にいいんよ。照れ臭えしな」

たいむとらべるなんて大層な事をしてるくせに、
葉がいつも通りのんびりユルく答えるので、アンナは拍子抜けしていた。

「じゃあ何しに来たのよ」と聞いたら、彼は笑って「ちょっと茶を飲みに」とだけ答えた。

それっきり、懐かしそうに庭を眺める彼を見て、
やがてアンナは隣に腰を下ろし、彼にならって春の庭を見つめた。
風が吹いて、さらさらと、桜の木の若葉が揺れた。

「ああ…そういう事」

アンナの静かな呟きを聞いて、葉は目を開いて傍らの彼女の顔を覗き込んだ。

「そうなの…」

アンナの落ち着き払った、どこか諦めたような声色が何を指すのか、
まさか、と葉が声をかける前に、「悪かったわね」と、続いた。ダメ押しだった。

葉はすっかり失念していた。
彼女が幼い頃から、恐ろしく鋭く、勘の良かったこと。
驚くのと同時に、この何もかも見抜かれる感覚が、無性に懐かしく、苦笑いして頭をかいた。
さすがだなあ、相変わらずだなあ、と

「…謝るのはオイラの方だ。隠しとくつもりだったんだけど」
「何となく…順番は、逆だと思ってたわ」
「…オイラもだ」
「いつになっても、あんたはやっぱり、甘えたなのね」

葉はまた、哀しげに笑って、湯呑みの中を見つめた。

老いた彼が、わざわざ自分に逢いに来た
その意味を悟って、アンナは微かに目を伏せた。














彼女がいなくなってしまった部屋の殺風景なこと

いや、これならまるで、ちょっとそこまで出掛けてるだけみたいじゃないか

例えばいつものように、曾孫に連れられ公園へ。
めんどくさいと言いながら結局ついていくアンナ
帰れば子供は新しくゴム飛びを覚えてる
まだまだ元気なアンナ

そんな風にも考えてみたけど、少しも晴れない空気が、冗談を冗談と沈ませた。


昨日、初七日を終えた。
この部屋には、まだ、彼女の名残が、何一つ変わらず残っていた。

ふんばり温泉の二階には、押し入れをぶち抜いて、二畳ばかり広くした部屋があって、
家族が増えすぎた晩年は、ここが葉とアンナの部屋になっていた。

葉は今や一人部屋となった自室に入ると、改めて、ぐるりと周りを見回した。


部屋は片付いていて、机が一つに、タンスが一竿。
天井に近い壁には、アンナのコレクションのペナントと、オイラのレコードが仲良く並んでいた。

できる事なら自分が逝くまで全てこのままにしておきたいけど、
それが上にいる彼女の望むところでないのはわかってた。
いずれ、形見分けと言うのをみんなそろってするのだろう。

その前に、彼女の物に手を触れられるのは、きっと自分だけの特権だ。

プライバシーの侵害だわ
とビンタはもう、飛んでこないし。


葉は曲がった腰を出来る限り伸ばして、アンナのペナントを順番に見て回った。
続いて、机の上の家族写真をしみじみと観察した。

最後に、部屋の隅に頓挫している、タンスの前に立ち止まった。

重厚な和タンスは、もともとアンナの部屋にあったものだ。
一番上の段だけ葉の荷物が収納されていて、他の引き出しには全部アンナの物が入っているはずだ。

「はず」というのも、葉はこのタンスを今日まで開けたことがなかった。
用事も無かったし、だから、その、「プライバシーの侵害」だし。
…でも、もう。……もう。

葉は引き出しを引いた。

タンスの中は、隅々まで彼女の匂いが満ちていた。



前にこの引き出しを閉めたのは彼女で
70年繰り返されたように、次開けるのもアンナのはずだった
途切れたのは1週間前の昼

庭の彼岸花を見ていたアンナは、そのままぱったりと倒れてしまって、
夕方、布団の中で目を開けて少し会話もしたけど、やっぱりだめだった。
アンナの髪が西日を透かして輝いていた
囲む友人が孫がわんわん泣いて、
泣くに泣けない息子は、目にいっぱい涙を溜めて、膝の上で握りこぶしを震わせていた。
オイラはずっとアンナの手を握ってた

穏やかで急なことだった


かえってその後の通夜だの葬式だのの方があんまりバタバタして忙しなくて、
落ち着けたのは、ようやく、今朝になっての事だった。




タンスの中は綺麗に整頓されていた。
初めて見る場所なのに、不思議と、いや考えてみたら当然だけど、
収納されている全てに見覚えがあった。

どれもこれも、彼女が気に入ってたもので、
物持ち良くて、どれもパリとして清潔だった。



ああ、懐かしい。
順々に、彼女の服を手にとっていく。

色とりどりの、着物に帯に、髪飾り
歳を重ねてからアンナは、亡き祖母の姿をなぞるように和服を好み、毎日帯を結った。

彼岸花柄の着物は、女将としてのトレードマークだったし

黒の着物は息子の結婚式に凛と着て

碧に水仙の着物は小学校の授業参観に着ていった

白地に風車の着物はシャーマンファイトの時着てたっけ

背が伸びて自分に小さくなった時は、セイラームに着付けてやってたな

そうだ夏祭りの日、兄妹を送り出した彼女は大きい腹を抱えてた


タンスの中には、彼女のもの以外にも、色々なものがしまわれていた。

あ、と思って掘り出したのは、手編みの、まっ白い毛糸の小さな羽織だ。
アンナは腹の膨らむ間、ずうっとずうっと編んでいて、
完成したと同時に花がポンと産まれて
柔らかな羽織は、最初大きすぎて息子はすっかり埋まっていたけれど、
やがて袖口から握り拳が見えるようになったと思ったら、みるみるうちに小さくなった
とはいえ実に長く彼を包んだそれは、いつも傍らに寄り添う若すぎる母の姿と一緒に、
押し潰しそうな幸福を纏っていつもいつも目に映った


幸せの絶頂かもと感じたのはその時で、

しばらくすると、あまりに当たり前に続く日々に、贅沢 幸せにあぐらをかいて

毎日を大切に思うことも忘れ、ただ、思い返すと、オイラたちはなんてたくさん笑いながら生きてきたんだろ

どれが幸せなんてものじゃない。
全部の思い出が優しく折り重なって、今日の胸を温かく満たしていた。


こうして、長い間に積った思い出が、歳を重ねる毎に人を涙もろくさせていくものだけど、
周りに大泣きする人間が多すぎたのと、忙しさに葉は今日まで泣けずにいた。


けれど、やがてタンスの奥から、
とっくにどこかにやってしまったと思っていた、
鮮やかな赤いバンダナが大切に大切に畳まれているのを見つけた時、
葉は彼女を喪ってから、ついに、初めて泣いた










長い、長い人生で、自分の手で結んだこともといたこともあった
赤い赤いバンダナを、今目の前で、縁側に座る幼いアンナがつけていた。


葉とアンナは他愛ない会話を交わした。
あんまり未来のことを話すのは良くないだろとの配慮か、
自然と、話題はほとんど葉からアンナへの質問になった。

学校どうだ、とか、今日夕飯何食べんだ、とか

その最中、
葉はふと言葉を切って、アンナを眩しそうに見た。
あんまり大切そうに見つめてくるので、照れ臭くなって頬を染めていたら、
「触っていいか」と聞かれて、しぶしぶ頷くと葉はそっと手を伸ばし、アンナの頬を皺だらけの掌で包んだ。

指先まで刻まれた皺の一つ一つには、確かに彼の人生が、
同じ比重で自分の人生が詰まっているに違いない
一つも見覚えなどないのに、どれも懐かしく感じた
黒い瞳は葉そのものだったけど、縁取るまつ毛には白いものが交ざっていた。
なのにそこに映る自分は残酷なほど幼なかった
耐え切れず目を伏せたのは彼の方だった。


そうか、この人は、会いたい人に会えなかったのね

アンナはいたたまれなくなって、老人の頭を柔い胸に抱き寄せた。

「バカね、あんたって」

精一杯腕を回した広い背中を、いつものように抱き締めた。

「こんな所まで来ちゃって」

葉は少女の腕の中で、「アンナ」と一つ名前を呼んだ





彼はアルバムを捲りに来ただけだ

廻る
年月を駆け戻って

写真の中の動かない像に、返答とぬくもりを求めて

何を言うでもなく
何をするでもなく

写真をなぞるだけの短い旅行

残酷で、無意味な
優しくて、無謀な

時を遡り、流れ泳いで、
なのにようやっと触れたのは、会いたかった彼女ではなかった




オイラに半世紀寄り添ってくれたアンナは、あの西日の中、手の内で、
触れながら消えてしまったんだ

最後に、オイラを見て笑ったんだ

もう行ってしまった
戻ってもあの日まで隣にいたアンナには決して会えない


ごめんな

寂しいだろ
心細いだろ

こっちにはみんないて にぎやかで
オイラが先に逝って、お前を待ってやれたら良かったのに
ごめんな

いつかオイラも逝くからよ
それまで浮気しないで待ってろよ

いつまでもお前は綺麗だから










引き出しの底の真っ赤なバンタナに、
思わず頬を寄せたくなって、抱き寄せるように引き出した時だった。
さらりと床に白いものが落ちた。
追いかけて視線をそちらに投げると、畳の上に封筒があるのを見つけた。

彼女からの、手紙だった

















老人が帰ってしまうと、アンナは二人分の湯飲みを洗い、二階の自室へ向かった。

机に向かい、白い便箋と封筒を見つけだし、ペンを握った。

――さて

何を書こうかしら?
ウジウジしてるあんたに

幸せだと?
それとも?


しかし一向に、彼に伝えたい言葉は出てこなかった。
当然だ。
今の自分は、あの老人のことなんて、ほぼ何も知らないに等しいんだから。

名案を思いついたと思ったのに、早々と行き詰まって、どうしたものかと首をひねっていると、
丁度その時、葉が帰ってきた。
ガラガラと、玄関の引き戸の音がした。
スーパーのビニール袋の音が続く。

アンナは真っ白の便箋を見下ろして、少し考えてから、ペンを置いて、部屋から出ると階段を駆け降りた。

葉は玄関でサンダルを脱いで、足音を聞いて顔をこちらに向けたところだった。
アンナの表情を見て、葉は唖然として、
「ただいま」も言えずにいた
葉の顔がみるみる滲んで、俯いて床に雫が落ちたら、温かい手が頭を撫でた。





手紙なら大丈夫
急ぐ必要なんてない。

老いて全て済ませたその日が来るまで、伝えたいことを考えよう
あの老人に
この目の前の彼に


時間はたくさんある


そう、急がなくていい
悲しまなくていい


だって私には、これから先
気が遠くなるほどに
彼と過ごす、幸せな日々が待っている

























***
とても幸せな夫婦