2/14は朝から良い天気だった。
爽やかな冬晴れ。東京のくせになんて空が高いんだろう。
アンナは窓際の席から、ぼんやりと空を見上げていた。
砂糖菓子のような水色の空を、マシュマロの雲がふわふわ流れていく。

「バレンタインかー」

その声に前を見ると、いつの間にか葉が戻ってきていた。
椅子に横向きに腰かけ、ウヘヘと笑う。
彼の手には、持ち手にオレンジのリボンを結んだ紙袋があった。

「またもらっちまったぞ。すげえだろ。2つ目なんよ」
「あっそ」
「なんだよ冷てえな。わけてやらんぞ」

あんたそれは一人で食べるものでしょ、と突っ込もうと口を開けたら、まん太が横から声をかけた。

「すごいね葉くん。意外とモテるんだね」
「意外ってなんだよ」
「…で?アンナさんからはもうもらったの?」

ふとまん太が冷やかすように言った。
葉はぽかんとして、今初めて、バレンタインと自分の許嫁を結びつけたと言うように、横目でちらりとアンナを見た。
二人の男子の視線を受けて居心地悪くて、アンナはぷいっと顔をそらした。

「バ!バカじゃないの、何であたしがバレンタインなんて…」

「だってよ」と葉は悲しげに言って、まん太と顔を見合わせてはははと笑った。

「そ、そうよ、バレンタインなんて…下らない…」

ぼそりと続けるアンナのお腹の前、葉から見えない机の下で、
手作りチョコレートの入った紙袋が、小声でカサ、と鳴いた。

































アンナがバレンタインというものを知ったのは、森羅学園に来てからだった。
14日が近づくにつれ、スーパーやニュースや雑誌やクラスの女の子達が、
そわそわと浮き足立っているのを、下らない風習だと冷めた目で見ていた。
しかし、当日がやってくると、あっと言う間に、旦那の葉よりたくさんのチョコ貰った。女子からも、男子からも。

バレンタインというお祭り騒ぎを初めて体験して、目の前の可愛らしいチョコレート達に面喰って、
何も準備していなかったことに、なんとなく乗り遅れた気分を感じていた。

ダメ押しに、旦那の葉がクラスメイトの女の子からチョコレートを受け取る場面に遭遇してしまった。

物影から葉の嬉しそうな照れ笑いを見て、なんとも言えない気持ちになった。
それは、当然嫉妬…に加えて、葉の受け取ったチョコレート自体の、なんとまあ凝っていて可愛いこと。
渡す彼女のなんとまあ楽しそうなこと。

国をあげて恋愛に浮かれてるというのは、滑稽でありながら愉快なものだ。
チョコレートの可愛い外装も、恋する女の子の笑顔も、全てが、アンナの心をくすぐるには、十分な材料だった。


何より、そう、うちの旦那。
あんなロクに会話もしてないクラスメイトに貰うだけでニコニコと喜ぶのだ。
もしも、普段料理をしないあたしが、あいつが惚れてる(はずの)あたしが、
葉に美味しくて素敵な手作りチョコをあげたりなんかしたら、
あいつはどれだけ喜ぶんだろうってこと。

去年のバレンタインの葉と言えば、明らかに自分からのチョコレートを期待して、やたら豪華な弁当をつくって、
二人きりになった時は終始そわそわして、おやすみを言った時には、心底がっかりした顔をした。

そんな葉に、今年は全然期待してないだろう葉に、あたしがバレンタインチョコをあげたら…

それはもう、泣いて万歳して、抱き締めてくるだろう。
そしたらあたしはうざったそうに振り払ってやるわ。
でも葉は一日中スキップして、夜は泣きながら寝るに違いない。
あたしが五目ずしをつくってあげた時のように。

そうして向こう一週間は私の好きな料理ばかりが食卓に並び、葉はお姫様のようにあたしを扱うんだろう。

さらに噂によれば、『ホワイトデー』なんてものもあるらしいじゃない。
あいつがどんなプレゼントをくれるか楽しみで堪らない。

そんなわけで、今年の2/14は、完璧にこのお祭り騒ぎに乗るために、アンナは万全の準備を始めたのだった。




まず手始めに、雑貨屋にバレンタイングッズが揃うのを見計らって、
方々渡り歩いて、理想の包装グッズを探した。

バレンタイン前の店内は、目がチカチカするほどオンナノコだった。
どこもかしこもピンクと赤。それにハートハートハートだらけ。
色とりどりの、包装紙に、可愛い小箱の、ラッピングたち。
それは全部が、花柄、チェックにストライプ、水玉と、これでもかと女の子らしさを主張している。
私が一番可愛いわ、私が一番オシャレでしょ、て。
私を選んでご覧、恋を叶えてあげるわよ、
と口々に言うラッピングの数々に、あれこれ目移りしながら、
でもアンナはとっくに、一週間も前から包装紙の色を決めていた。

あいつの好きなオレンジ色。

オレンジ色の包装紙の中から、いくつかめぼしいものを見繕ってまじまじと見比べてみる。
薄いストライプのものと、水玉のもの。
こっちは落ち着いていて素敵。でもこっちはモダンで素敵。
などと長いこと悩んでいたけど、ふとストライプの包装紙にリンゴのシールがついているのを発見し、これは運命と即決した。

リボンの色も同様に、何度も何度も包装紙にかけて悩んで、ついに最高の一つを選び抜いた。
この日の為に貯めていたおこづかいで会計を済ませると、
売り場ではまだ、女の子達が小鳥みたいに集まって選んでいた。

でもダメよ。もう一番最高のラッピングはあたしが買っちゃったもの
アンナは鼻歌を歌いながら、チョコレートの材料を買うために次の目的地に向かった。




食材をたっぷり抱えて家に帰ってきて、どさりと食卓の上に下ろす。
次はメインのチョコレートづくりだ。
腕まくりをしてとりかかる。

定番の板チョコを湯煎で溶かしだすと、ふわっと甘くてほろ苦いチョコレート香りが広がった。

これぞ恋の香り。
バレンタインデーは菓子屋の陰謀と良く言うけど、せんべいやポテトチップスの日にされなくて本当に良かった。

だってチョコレートは媚薬よ。


雑誌の切り抜き、「簡単!ガトーショコラの作り方」を食い入るように見つめながら、アンナは薄力粉をふるった。


葉。
思えばあんたにお菓子をつくるなんてこれが初めてね。

「ゴムべらでさっくりと」混ぜながら考える。

ねえあんたと出会ってどれくらい経ったかしら。
青森で鬼の存在に怯えていた頃には、こんなに穏やかな日が来るなんて思ってもいなかった。

東京に出てきて、あんたと一緒に暮すようになって。
最初こそ緊張し合っていたけれど、
今はすっかり落ち着いちゃって 周りが呼ぶのは熟年夫婦

でもそれって素敵じゃない
あたしたち、夫婦ですって 
夫婦ってね 一緒にいるのが当たり前でしょ
一緒にいるのが心地いいでしょ
あんたもそう思ってくれてる?
あたしはいつもそう思ってる


途中、粉の分量を間違えてやりなおしたり、容器をひっくり返したりして、
卵のからがみるみる三角コーナーにたまってしまったけど、
二時間も経つ頃には、ついに、真新しいハート型に、生地を流し込むところまで漕ぎつけた。

外はすっかり暗いけど、葉はまだ帰ってこない。
大丈夫、だって「今日は絶対に9時まで帰ってくるな」って言ってあるから。
葉は「うぇええぇ?」と情けない声を上げていたけど、しぶしぶまん太の家に行く約束をとりつけていた。

あいつは従順で、弱虫で、臆病で、優しいから
いつもブーブー言いながらも、最後はちゃんとあたしの言う通りにしてくれる

そういうところが…好きよ
いつもありがと

…だいすき

口に出さない告白の言葉が、花弁のようにひらりと、チョコ生地の中に落ちて溶けていった。




やがてチンとオーブンが呼んで、アンナは料理雑誌を投げ出すとオーブンの前へ向かった。


小さなハート型に入ったガトーショコラは、ふんわりと膨らんでいた。

ほらね、やっぱりこんなのあたしにかかればちょろいのよ。
ほんの少し焦げくさい気もするけど、許容範囲だわ。

最後に、チョコクリームとトッピングで、出来上がったガトーショコラを注意深く飾り付けていく。
チョコクリームをまんべんなく塗りつけて、
パラパラと色とりどりのチョコスプレーを落として、
仕上げに恐山の粉雪のように粉砂糖を振った。

できあがったガトーショコラを惚れ惚れと見下ろし、アンナは息をついた。
なんて可愛いんだろう。
やればできるものだわ。
これであいつもイチコロよ。

満足気に腕を組んでしばらく眺めていたけど、壁の時計を見てはっとした。

いけない、このままじゃ、葉が帰ってきたら香りで何やってたかバレちゃうわ。
アンナは台所の窓を全開にした。
チョコレートの甘ったるい香りが、小さなピンクのハートになってきらきら夜空に飛んでいく。

今頃たくさんの女の子の家の窓から、ハートが流れているのかしら

アンナはメルヘンな妄想にクフフと笑って、それから2月の北風にくしゃみをした。






葉が帰ってきたのは夜遅くだった。
チョコの香りに気づかれるかと思ったけど、
入るなり「おい随分冷えてるな」とストーブをつけたから、どうやら首尾は上々のよう。
冷蔵庫を開けて、「あれ?卵がねえ」と言った時はひやっとしたけど。

何も知らずにいつも通り、間抜けにおでん(卵なし)を作る葉の背中を、わくわくしながら見ていた。

夕飯を手早く食べ終えると、部屋に閉じこもってラッピングを始めた。
手のひらサイズの、小さなハートのガトーショコラを箱に入れ、
これまた雑誌の切り抜き「できる!一番おしゃれなラッピング特集」を見ながら、包装紙を巻いていく。
リンゴのシールではしっこを止めて、少しずれたので直して、
もう一度直して、どうにも納得いかずもう一度最初からやり直して、
リボンの巻き方に四苦八苦して、何度も結んで、
仕上げにちょいちょいと指で整えて…整えて…
ようやく満足のいくラッピングが出来上がった。

オレンジ色のストライプの包装紙に、赤いサテンのリボン。
裏っ返せば可愛いリンゴのシールがちょこんと乗っている。

あまりの可憐さに、チョコレートのラッピングから、漫画のように、またもキラキラとハートがこぼれて見える。
ああ、恋する女の子のチョコレートなんだわ。

アンナは自分の成し遂げた偉大な仕事を誇らしげに眺めた。
このままお店に出しても恥ずかしくないんじゃないかしら。
やだ、こんなに素敵なんじゃ、もしかしたら、葉は最初、どこかで買ったんじゃないかと思うかも…
あたしが作ったって、信じてくれなかったらどうしよう?

アンナはフフフフと笑って、枕にぱふっと顔を伏せると、ぱたぱた足を動かした。

ああ、もう渡しちゃいたい、喜ばせたい、驚かせたい。どんなに頑張ったか教えてやりたい。
早く明日にならないかしら。


チョコから生まれたハートが、ふわふわ葉の部屋の方へ飛んでいっては、壁にコツンとぶつかって戻ってくる。
そんな様子見ながら、その日は、眠れない夜を過ごした。






朝がきて、一階から葉が朝ごはんの準備をする音が聞こえてくると、
アンナはしっかりと身だしなみを整え、鏡の前で前髪を直してから、
依然ハートを撒き散らすチョコを背中に隠して、そろそろと階段を下りた。

台所を覗き込む、ちょうど葉が朝ごはんを作り終えて、エプロンを外そうとしているところだ。何てグッドタイミング。
よし、と気合いを入れて…チョコを握りしめ…

さあ今よ!出て行って、葉の鼻先にこのチョコを…


今よ!


今…


……


今よ!


………


でも、1分経っても、アンナはそこに突っ立ったままだった。
と、葉がこちらに気づいて、「おお、おはよう、飯できてるぞ」と声をかけた。
アンナは片手を背中に回したまま、椅子を引いて食卓について、チョコを膝に乗っけたまま、もくもくと朝食を食べ始めた。

それからも、ご飯の間、葉がご飯を食べ終わった後、歯をみがきにいく時、葉がトイレから出てきた時、色んなタイミングでアンナはチョコを渡そうとした。
でも、どうしてもチョコを持った手を前に持ってこられなかった。

それでようやく自覚した。
どうやらあたしったら緊張してるみたい。ものすごく。

いつも一緒にいるというのに、考えてみたら、葉に直接プレゼントらしいプレゼントをあげるなんて初めてだ。
しかもこんな女の子らしいものを。
バレンタインなんて、チャラついた流行に乗って。このあたしが。
しかも隅から隅まで手作りだ。
こんな照れくさいシチュエーションが未だかつてあっただろうか。

そう気付いた途端、もう顔が真っ赤になって、胸の鼓動がおさまらなくなってしまい、
アンナは距離をおいて葉の周りをうろつくことしかできなくなってしまった。

そうこうしてるうちに、まん太が珍しく家まで迎えに来ちゃって、
あたしは急いで紙袋の中にチョコレートをつっこんで家を出た。





良いわ、何も今じゃなくても、いつでも渡すチャンスなんかあるし。

そう思ったものの、意外と自分も臆病だったらしく、
学校についても一向に渡すタイミングを掴めずにいた。
他の女の子は、赤い顔をしながらも、葉に声をかけては、教室で渡すなり、呼びだすなりしてるのに。

さっきの昼休みだって、まん太が「アンナさんからはチョコもらったの?」とまさかのど真ん中発言。
そこであっさり「あるわよ」と差し出せたらそれで済んだのに、うっかりはぐらかしてしまい、
ついに午後の授業まで、チョコを渡せずに終わってしまった。

あちこちに隠して握りしめていた紙袋には、もう自分の汗がじっとりと染み込んでしまっている。


葉の好きなオレンジ色のラッピングに、赤いリボンをつけた可愛いチョコレート。
渡したら、葉が感激することは間違いないのに…


けれど、そう考えていたのも、あたしだけじゃなかったのだ。
さっき葉が見せびらかしたチョコには、オレンジ色のリボンが付いていた。
あいつがいつもつけてる、ヘッドホンと同じ色のリボン。

意外と敵も葉を良く見てるようで…
とすると、あのチョコは義理ではないのだろう。
てっきり、葉なんかは、人畜無害なユル男だから、ノリか何かで義理チョコのおこぼれをもらってるんだと思っていた。

あの中身は…まさか、手作りだろうか?

葉の持ち帰る、豪華でセンスの良いチョコレートを見て、
アンナは改めて紙袋の中の自分のチョコを見下ろした。

…もしかして、ちょっと地味だった…だろうか?もう少しリボンを大きく結べば良かった?
そういえば、サイズも、ずいぶん、こじんまりしてるような…
今朝まで振り撒かれてたハートのラブラブオーラも、今ではすっかり自信をなくして紙袋の底にたまってしまっている。

あ、やだ、はしっこにシワがよっちゃってる。
もっときつく包まなきゃダメだった…

もう、と紙袋に手を突っ込んで包装紙のテープを貼り直していると、

「アンナ」

突然背中から葉の声がして飛び上がった。

「帰るぞ。何やってんだ?」

急いで振り向いて、背中にチョコを隠した。

「何隠してんだ?」

葉が覗き込んでくる。
顔が近づいてほっぺが熱くなる。
周りには生徒もまばらで…一瞬、今度こそ、背中のチョコを鼻先につきだしてやろうかと思った。
しかしすぐ冷静になり、後ずさる。

ダメ、今は絶対ダメ、包装紙よれちゃってるし、リボンも結び直さないと、

「なっ何でもないわよ!あたし先帰るから!」

言い放ってチョコを体の陰に隠したまま駆け出した。

葉が背中から声をかけてきたけど、無視をした。
不自然だった。今頃訝しんでることだろう。…チョコの事バレちゃったかしら?
いいや、大丈夫、あいつならすぐ忘れちゃう…

それより、このチョコをどうするかだ。

誰もいない空き教室でラッピングを直したものの、まじまじと見るとやはりどうにも地味だ。
まさか嫁でありながら、他のチョコと比べて見劣りするなんてあってはならない。

しばらく手をこまねいて考えて、ふと、打開策を思いついた。

そうだ、手紙よ。
手紙をつければ良い。
簡単でいい、一言。
可愛らしいカードに、甘い言葉の一つでも書いちゃえば、あいつはコロッと感動するわ。
そうと決まったら、素敵なカードを探しに行こう。
アンナは紙袋を抱えて、一目散に学校を出た。

そんなアンナの後ろ姿を、葉は教室の窓から見つけて首を傾げた。




しかし、駅前のHEIYUにはいまいち納得のいくデザインのカードがなかったので、
アンナは電車に乗って都心に向かうことにした。

それが間違いだった。








電車を降りて、池々袋の雑貨屋を見ていた時にようやく気付いた。
丁度、チョコレートのオレンジの包装に、似合いの封筒を探していた時だ。
オレンジの色合いを見ようと、紙袋を探したら、無かったのだ。


チョコレートを入れた白い紙袋が、どこにも。

一瞬、アンナの周りの時間が止まった。
それから、ゆっくり周りの音が戻ってきて、同時に脳みそが一つの答えを導き出した。

電車だ。

先程、電車でガタゴト揺られて、
しばらくチョコの入った紙袋を、鞄と一緒に膝に乗せてたけど、斜めにならないように持つのが難しくて、体の横に立て掛けることにした。
長い乗車時間の間、カードに書き記す文面を考えるのに夢中になり、
徐々に頭から傍らの紙袋のことは抜けていった。

電車が目的地の池々袋に到着すると、膝の上のかばんを持って、ホームの冷たい風にそなえてマフラーを巻き直しながら、一度も振り返らずに電車を降りた。

そうして、西武池々袋線の黄色い車両は、
乗客を全部降ろしきると、電車のドアをぴったりと閉め、
さよならも言わず次の街に走り出していった…

アンナは雑踏の中でまだ放心していた。

無駄と思いながら、薄っぺらい学校鞄の中も覗き込んでみた。無かった。
両腕を伸ばして、どこかに引っかかってないかと体をひねって背中まで見た。もちろん無かった。

白い紙袋と、オレンジのラッピングのチョコはどこにもなかった。



放心して…放心して…

ふと、通路のど真ん中で立ち止まっていたことに気づいて端に寄った。
制服姿の女の子達が、キャッキャと話しながら、アンナを追い越して歩いていった。
アンナは、バレンタインカードのコーナーを遠目で見ながら、ぼんやりと思った。

…良かったわ。

あたしは…、あたしはほっとしていた。

もう、ドキドキしなくて良いんだわ。隠し事にハラハラしなくて良いんだわ。
面倒くさいことは何もなくなった。

もうカードを選ぶ必要はないし、言葉を考える必要もない。
キラキラするインクのペンを買う必要もなくなった。

良かったじゃない。


踵を返して、さっさと家路につく。もう夕方もとうに過ぎてしまった。良い時間だ。
お腹も空いたし早く帰らなきゃ。葉が待ってる。


大体、似合わなかったのよ。
あたしがバレンタインなんて。
手作りチョコなんて、らしくないにも程があった。

冷静に考えたら、包装は地味で、一日持ち歩いてたから崩れてたし、
ケーキはやっぱり焦げてたし、
味見した時も、特別美味しくもなかった。
あんなにキレイに…膨らんだのが不思議なくらい、
分量も投げやりだったから、食べたらお腹を壊してたかもしれない。

葉だって、何個もチョコ貰ってたもの。
その上であたしのなんか食べたら、きっと虫歯になってたわ。
食べ過ぎでブクブク太ってたわ。
そうよ、きっとそう…

あいつだって、あたしのチョコなんかいらなかったわよ。
あたしが料理下手って知ってるから、受け取らなかったかも。そうよ…

これで良かったのよ…。


あたしははきはきと前を向いて、駅のホームを歩いた。

でも、家につく頃には、爪先ばっかり見ていた。
バレンタインは今年だけじゃないわ、そう結論づけて、北風に一つ白い息を吐いた。




「…ただいま」

ガラガラと戸を開けて言うと、ちょうど廊下を歩いていた葉がこっちを向いた。

「おかえり。遅かったじゃねえか。どこ行ってたんよ?先帰るって言ってたのに」

あたしは無言で、部屋に帰って制服を脱いで、黒いワンピースに着替えた。
黙ったまま夕食を済まし、居間にいこうとすると、葉が背中から話しかけた。

「あ、そこのチョコ食って良いぞ」

見ればこたつの上にチョコがあった。葉が昼間もらったらしい、3つのチョコだ。
ふんと鼻を鳴らして、こたつに入ってテレビをつけた。

「あれ、食わないんか?」

洗い物を終わらせた葉もこたつに入り、どれから食おうかとチョコレートを選び始めた。
一つ決めると、ガサガサと包装を解く。

「おお、トリュフだっけ、これ。うまそうだなー」

言って一つつまんで食べる。チョコレートの香りがふんわり漂った。

「うめえぞ、ほら、お前も食えよ」

あたしはチョコを一瞥してから、またつんと顔をそらした。
葉は不満そうにクエスチョンを浮かべ、次のチョコのオレンジ色のリボンを解いた。

「おおーこっちはケーキかー。飲み物が欲しくなるな。なあ、コーヒーと紅茶どっちがいいよ?」

あたしが相変わらず無視するので、葉はふうとため息をつくと、ぼそりと言った。

「何ツンツンしてんだよ。…つーか、バレンタインなんだからよ、お前だってオイラにチョコくれたって良かったんだぞ…」

そう言われた瞬間、堪えていたものが爆発した。

「作ったわよ!き、昨日、頑張って、ケーキ作ったわよ!」

あたしの剣幕に押され、葉は呆気にとられていた。
葉の顔を見てたら、チョコレートの事をありありと思い出してしまった。


「ほ、包装だって、がんばって…オレンジの…!」

雑誌の切り抜きをためたファイル、自信満々で選んだ包装紙、可愛く結んだ真っ赤なリボン。

葉の手で解いてもらうはずだった。
包装紙を外す時は、リンゴのシールを見つけて、「おお可愛いな」って言ってくれなきゃ駄目だったのよ。
なのに、なのに…

「でも…、つ作ったけど、無くしちゃったんだもの…もうあげられないもの…」

そうだ、なのに全部ふいにしてしまったのだ。
あんなに甘くて良い香りがしたのに。
あんなにキレイにトッピングできたのに。
もうどこにいっちゃったかわからない。
あたしの可愛いガトーショコラ。
葉に届くはずだったハート達、今頃行き場をなくして泣きべそかいてる。

なくしちゃった。
置いてきちゃった。あたしのバカ…。
握りこぶしを作っていると、葉の顔がどんどんぼやけてきた。

ああ、違うのよ、あんたの、そんな困った顔、見たくなかった。
葉が喜ぶところ、見たかった。喜ばせたかったのに、なのに…

あたしは俯いて嗚咽を漏らしながら泣き出した。
ややあって、葉が口を開いた。

「アンナ…」

ティッシュを引き寄せて、あたしに差し出し念を押す。

「ほ…本当に?」
「あ、当たり前じゃない…」
「どこで無くしちまったんよ?」
「電車…座席に…池々袋で、カードを、…だってチョコ、傾けたくなかったのよぅ…」

言ってることはほとんど伝わってないだろうが、
葉は、ふむ…と畳を見つめながら口を尖らせた。
それから、時計を見て、うし、と気合いを入れると、立ち上がった。

「探しに行くぞ」


まさかの言葉に、あたしは涙目を持ちあげたけど、すぐまたティッシュをとって鼻をかんだ。

「良いわよ…もう、どうせ見つからないもの…」

だってもう8時を回っていたし、なくしてから何時間も経っている。
でも葉は、ぐちぐち言うあたしにコートを羽織らせ、鼻の下までマフラーをぐるぐる巻くと、手を引っ張って歩き出してしまった。

外に出ると真冬の風が涙の通り道をひんやりさせた。
そこで、葉はふとこっちを向くと、

「えっと…その…作ってくれて…ありがとな」

と呟いて、「あーあ目が真っ赤じゃねえか」とやたらはっきりした声で言った。
袖口であたしの頬を拭くと、冬の夜道に向かってずんずん歩き出した。
私は鼻をぐすぐす言わせながら、仕方なく付いて行った。





ふんばりヶ丘駅で落し物について聞くと、駅員は帳簿をめくって、いくつか質問を浴びせた。
手をつないだままの葉に促され、
しぶしぶ小声で、無くした時間や車両、
それから落とし物の外観や中身…の諸々を伝えると、
駅員は今度はパソコンをいじり出した。

「落し物は白い紙袋ね、…中にオレンジのプレゼント…。ああ……もしかして赤いリボンがかかってた?」

自分が口に出さなかった特徴を、不意に指摘され、こくんと頷く。

遺失物センターに届いているよ
と、言われたとき、あたしはまた泣いてしまった。俯いてたら葉が頭を撫でてくれた。

あたしのチョコは遠い駅の遺失物センターにあるらしい。
今から取りに行って帰ってきたら終電ギリギリになってしまうよ、と言われたけど、
葉は取りに行くと言ったから、あたしも頷いた。





…こんなはずじゃなかったのに。

ラッシュの過ぎた、人もまばらな電車に揺られながら、あたしは膝を見ていた。
真っ暗な窓の外を、都会のにぎやかな灯りが流れていく。

こんなはずじゃなかったのに。
あたしの理想のバレンタインは、こんな予定じゃなかったのに。

本当なら今ごろ、こたつに入って、切り分けたガトーショコラを、一番上等なお皿に乗せて、ニコニコの葉とささやかなパーティーをしてるはずだった。
なのに、こんなところで、葉を連れて。
今日のあたしったらまるで甘えんぼで、カッコ悪くて、
チョコを渡してふんぞり返って見下すはずだった葉に、迷惑かけて、こんなはずじゃなかったのに。

隣の葉がどこか嬉しそうなのがまた鼻につく。
そこでやっと、家を出てからずっと握ったままだった手に気づいて、乱暴に振り払ってやった。





そうして、終電ふたつ前というような時間になって、
ようやくあたしは遠い駅の片隅でチョコレート取り戻したのだった。

中を覗き込む。無事だった。でも中身はどうなんだろう。一日中振り回されて。
安堵と落胆で肩を落として、今度こそ本当の家路についた。





終電目前の電車は、行きよりもさらにがらんとしていた。

前に座っていたサラリーマンが降りてしまうと、車両にはあたしたちだけになった。
ガタンゴトン、電車の揺れに合わせて膝の上の紙袋が揺れる。

「…で?」

沈黙を破ったのは葉だった。

「え」
「それ、どうするんよ?」

葉は目をそらしながら言った。
でもセリフは、アンナの膝の上を示していた。
言われた意味を反芻した途端、また頬が熱を持ち始めた。

「そんなの…」

決まってるじゃない…
そうよ、決まってる。このチョコレートをこれからどうするかなんて。

失敗したわ。さっき遺失物センターで受け取る時、そのまま流れで葉に持たせてしまえば良かった。
改まると照れくさいものだから。

恐る恐る紙袋の中を見れば、あたしのチョコレートったら、
また包装紙が緩んでしまってるし、リボンも斜めになってるし、結局カードもないままだし…それに…それに…と
昼間のように、際限のない躊躇が巡りかけたけど、
ついにあたしは観念して、紙袋からのろのろとチョコレートを取り出し、膝の上にスタンバイさせた。
葉の方を見れずに、ぼそりと呟く。

「あのね…ちょっと…潰れちゃったわ」
「気にしねえよ」
「ちょっと、…焦げちゃったのよ…」
「いいよ」
「あたし初めてだから美味しくないかも…」
「んなこたねえよ、絶対全部食うよ」

胸がドキドキ言って、今にも弾けてしまいそう。

ああ、もう頭がヘンになってきた。
窓の外でネオンが残らずハート型みたい
月明かりは虹色で
まるで座席はピンクのふわふわラブソファ
足元フワフワして、この電車、星空を走っているみたいだわ…

やっぱりあたし
今日は恋する女の子


顔をあげたら葉が照れ臭そうに優しく笑ってて、あたしの胸がまたきゅんて鳴いた。


包み紙から、たくさんのピンクのハートを撒き散らしながら、
あたしはおずおずとチョコレートを差し出した。



すると何を勘違いしたのか、葉があたしごとぎゅーと抱きしめてきて、
それがあんまりあんまりあったかかったので、
葉の胸から、つぎつぎハートが溢れてくるので


ああ、あたしもチョコみたいに、今にも溶けてしまいそぅ

















***
おしまい。

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