エピローグ
1993年、夏
青森
麻倉葉はこの年8歳を迎えた。
8歳の子供にふさわしいのは外を走り回るか、あるいは友達とゲームにでも没頭する頃。
しかし、葉はどちらにもはまらずに音楽ばかり聴いていた。
母親は勉強をしろとも外で遊べとも言わず、父親はおととし会ったきりで、
祖父に買ってもらったCDプレーヤーは真新しくて、見るだけで嬉しくなるし、再生を押せばもっと幸せになれた。
その頃はよく友達なんていらないと思っていた。
一人きりで生きていくのもいいもんだ、と自分に言い聞かせていた。
それが強がりだと思うにはまだ幼すぎて、自分は悟っているんだと、言葉は知らなかったにせよそんな意味でとらえていた。
夏休みを利用して青森の祖母の家に行くのは、そんな無機質で単調な日々に嬉しい刺激の上、シャーマンの修行から逃れられるのだから、こんなにおいしい話はなかった。
加えて言うなら青森に到着するまでに乗る列車の中で、でかいソファに座って、風景を見ながらいつもの音楽を聞いてみたら、また違った気分がするんじゃないかと思ったからだ。
旅行は不思議だ。
電車や新幹線に乗る事が、素晴らしくて、列車の速さで日常を飛び越していくようだ。
今、切符をポケットからひっぱりだしたことも
何時の列車で到着すると祖母に伝える公衆電話の受話器の重さも
発車のベルに駆け出した靴音も
駅弁の蓋を開けたこの瞬間全てが、楽しい旅行の、そうメインとなる時間の一つなんだと確信していた。
小学校三年生の夏休みの事だった。
目を開く前に、感じた匂いが青森だった。
炎のそれより、ちょっと冷えてかたい布団の感触に顎を埋めて、目を閉じたまま寝返りをうった。
部屋は、寒々と冷えていたが、カーテンの隙間からさす太陽は、今日が晴天だと告げていた。
眩しさにもう少し布団に潜り込むと、ふと、鼻の先で、うなり声が聞こえたので、ようやく葉は目を開く事にした。
200X年1月、青森
そういえば、まん太や竜や、諸々の炎に出入りする人間に、大した説明もせずに出てきたしまった事、ふと思い出した時、当のまん太から電話が来た。
とりあえず心配かけたことを謝って、あとは、まあ、詰まる所、
今田舎でのんびりしてます。嫁は帰ってきてくれるそうです。
と、何やら気恥ずかしく要点を伝えると、まん太は乾いた笑いをあげた。
それから、長いため息をついて「良かったね」と心を込めて言ってくれた。
葉は微笑んで、今度は他愛いもない雑談へ話題を切り替えていった。
受話器を置いて居間に戻ると、木乃が七輪で餅を焼いていた。
「お前も茎子に似てきたね」
「そっか?」
「随分長話をするようになった」
「ああ、友達がな、宿題どうしたーとかしつこくてな・・・・・」
すると木乃は俯いたまま、ふっと笑った。
「そうかい」
葉も口元を綻ばせた。
「おお」
しばらく、餅が膨らむのを二人無言で見下ろしていたが、やおら木乃が声をあげて笑いだした。
「しかし、出不精のあんたが、まさかこんな理由で里帰りするとはね。孫も育つもんだ」
「ほっ・・・・とけよ、ほら餅焼けてんぞ!」
葉は赤くなって網の上の餅をひっくり返した。
やがて網の上の餅が、残らずぷっくり膨れたので、二人できな粉をつけて食べた。
「そういえば葉」
「何だよばあちゃん」
「ロウソクが切れたんでね、お前ひとっ走り買ってきておくれ」
「ええ〜」
葉の口から不平が零れる。
「オイラもまだ本調子じゃねえんだぞ」
葉はズズッとまだ風邪気味の鼻を啜った。
「年寄りに行かせる気かい」
葉は再び不満そうに唸ったが、すでに拒否ではなくなっていた。
数分後、正月番組が丁度良く終わったところで、葉は立ち上がり、買い物に行く簡単な支度を始めた。
玄関に座って靴を履いていると、木乃が後ろ手に手を組みながら、見送りにきた。
「何ならアンナも連れていくかい。そろそろ外も歩けるだろ」
葉は軽く首を振った。
「良いよ、あいつまだ良く寝てっから」
言ってしまってから、はたとする。
「忍び込むなら気付かれないようにやりな。まったく最近の若いもんは・・・・・・」
祖母の呆れ声から逃げるように、葉はそそくさとその場を後にした。
耳に、風に鳴る、深緑の騒めき。
草いきれの青い香り
木漏れ日がさらさらと髪の上を泳ぐ
蝉・・・・・、蝉の声。
アンナは、瞳を開くと、今し方まで身を投げていた芝生から体を起こした。
背中から葉っぱと土が、ひとかけらずつ落ちた。
頭上の青空には重厚な入道雲が、ゆっくりと流れている。
蝉の声。 見渡す。
林?・・・・・公園?覚えのない風景だった。
・・・・・いや、果たして本当に?
ふと、向こうの木陰に、乳母車を押す人影を見た気がした。
ここはどこだろう?
雪に凍えてない夢を見るのは、久しぶりだ。
蝉が鳴くのをやめ、ジジッと羽を鳴らして飛び立つ音がした。
辺りはまた、木の葉の擦れるしなやかで涼しげな音に包まれた。
アンナは周囲を見回した。
顔に広がっていたのは、不安の表情だった。
どこ?ここは、怖い。まだ怖い。 帰りたい。
どこへ?どっちへ?
誰か。誰か。助けて。助けて。誰・・・・・
けれど、アンナを取り巻く木々は、穏やかに、やわらかに、葉を鳴らすだけだった。
と、その時、引き戸がレールを滑る音が遠くで聞こえて、振り向いた。
玄関の戸が閉まる音がして、アンナは布団の中で身をよじった。
毛布から目だけ出し、そこが自分の部屋であること、怖い夢が終わったのを確認した。
ひきっぱなしのカーテンの隙間から、眩しい日の光が漏れている。
朝方葉が、のろのろ起き上がって、あくびと伸びをしてから、もう一度布団に潜り込んで、うざったいぐらい抱き締めてきて、最後に猫の子にでもするように頭を撫でてから出ていったのには気付いていた。
それからは、下の階の物音にたまに目を覚ましながら、うとうとしていた。
今は何時だろうか。カーテンごしにも部屋を薄明るく主張する活発な日差しは、昼近くのものだろう。
怖い夢を見たくなくて、それに、隣にいない人物の顔が見たくなって、アンナは髪を乱して、久しぶりに上半身を起こした。
台所に顔を出すと、木乃が洗い物をあらかた終えたところだった。
木乃は手拭いで手を拭きながらアンナに向き直った。
「おや、起きたかい」
「ええ・・・・・おはよう」
木乃が「おはよう」と答える間、アンナは軽く部屋を見渡した。
「葉ならいないよ。体調はどうだい」
「ええ、随分良いわ」
あれから数日、アンナは高熱を出しずっと臥せっていた。
命に別状はないものの、熱は中々下がらず、すっかり体力を奪われた。
看病をする木乃の横には、いつも、自身も風邪をひき、マスクをしてどてらを着込んだ葉が助手をしていた。
最初の頃、葉の額には包帯があったが、そのうちガーゼになり、最後には絆創膏になった。
ともかく葉はかいがいしく世話をやいた。
アンナの手を握ったり、頭を撫でたり、咳をしたり、食べ物や飲み物を与えてやったり、あわやりんごのCDをかけてやったり、くしゃみをしたりしていた。
見兼ねた木乃とアンナに「寝といで!」「寝てなさいよ!」と叱咤され、ようやくすごすごと自分用の客間に帰っていった
「葉は?」
「今買い物に行かせたとこさ」
「あいつは大丈夫なの?朝までくしゃみしてたけど。うるさいったら」
「・・・・相変わらずお前はいい度胸だね。葉にも見習わせたいよ」
「あら、誰に似たと思ってるのかしら?木乃」
アンナはそう言ってぽんと木乃の肩を叩くと、洗面所に歩いていった。
木乃の笑い声を背中で聞きながら、廊下の窓から空を見た。
先程まで晴れていたのに、雲が多くなってきたようだ。
また雪が降るかしら。 葉は大丈夫だろうか。
居間に戻ったら、天気予報を見なきゃ。
そう考えながら、ざばっと顔を洗った。
天気予報が終わると、木乃も窓の外に視線を投げた。
「傘はもっていかなかったね」
「もう、馬鹿なんだから」
「予報じゃぱらつくぐらいって言っているし、大丈夫だろ」
「まあね、仮にもシャーマンキングになろうって男がそんなひ弱じゃ困るわ」
アンナはおわんに口をつけ、汁粉の残りをちびりと飲んだ。
と、その時
「あら電話」
電話のベルが鳴り響いた。
あたしが出るわ、とアンナが立ち上がり、廊下に駆けていった。
電話の相手は、かの施設だった。
用件はアンナの体調のこと。それから、置きっぱなしのアンナの上着と手荷物のことだった。
数日中に取りに「行かせる」と告げて、受話器を置いた。
「なあに、木乃」
いつの間にか木乃が廊下にいて、アンナを見つめていた。
「どうかしたの?」
「いんや」
木乃は首を振り、それから口を開いた。
「あんた、葉から聞いたかい」
「・・・・・何を?」
「それの話さ」
木乃に顎で示された方向を見たが、アンナはその意味がわからず、訝しげに木乃に視線を戻した。
しかし、当の木乃は黙ってにこりとするだけだったので、アンナはもう一度、そっちを見た。
手の中の、黒く輝く、旧式の受話器を。
それから、電話台の上の黒電話を。
「・・・・何の話よ・・・?」
すると、木乃は両肩を持ち上げて、笑った。
「何、ただの昔話さ」
不思議そうに大きな目で見つめるアンナを、懐かしい気持ちで見返した。
小さかった少女と、孫と。
二人が出会い、今日まで、 随分大きくなって、ずっと、強くなった。
「じゃあ、・・・・・話してやろうかね」
そうして、旅の終わりが、始まった。
:麻倉 葉
1993年夏、青森にて
葉は道に迷っていた。
出掛け祖父の描いて持たせた、安井旅館への適当な地図は、事態を悪化させるだけだと早々に見限った。
それで、たばこ屋やら、交番で道を尋ねて、夕方やっと初めて祖母の暮らす家に到着した。
出迎えた祖母は、「良く来たね」「疲れただろう」と淡白な言葉しか言わないけれど、色めがねの向こうの柔らかい笑顔を見れば、これから始まる五泊六日が楽しみになったものだ。
そんな昔のことを思いだしながら、葉はブラブラと市内を散歩した。
片手のビニール袋には、いっぱいのロウソクが入っていて、葉の歩調に合わせカサカサと鳴いた。
雪かきされた歩道は、しっとりと濡れて高い日の光を反射している。
ふと商店街の途中に土産物屋を見つけ、この手のものに目がない葉は、おぉ・・・・と歓声をあげた。
こんなとこにも土産物屋があったんだな、と思うと同時に、自分がこの辺をまだ全然知らない事に気付く。
実際、葉が青森に来たのはこれが三度目だ。
マタムネと来た冬と、その数年前の夏休みに1人で来たのと、今回のこれだけ。
アンナが元気になったら、一度ぐらいしっかり、観光らしい事をしたいものだ。
もちろん彼女のガイド付きで。
ついでに帰る前にぐーちゃんに菓子折りでも持ってかんとな、と一人頷いて、土産屋ののれんをくぐった。
夏休み青森旅行、三日目の昼のことだった。
縁側でスイカの種を飛ばしてた葉に、祖母が廊下から声をかけた。
「町内会に行ってくるよ。帰りは夜になるからね」
「おお。気ぃ付けてな」
「鍵はここにおいとくから、出掛けるなら戸締りしっかりするんだよ」
「おお」
「鍵無くすんじゃないよ」
「わかってるって」
案の定、昼を過ぎる頃には、ジャンプを読み返すのにもいい加減飽きてしまい、葉は散歩でもすることにした。
言われた通り戸締まりをきっちり済ませ、玄関で便所サンダルをつっかけた。
木の引き戸を閉めて、鍵をかけた時だった。
「わっ!」
どん、と何かに背中を突き飛ばされて、派手にすっ転んだ。
「いってー・・・」
膝を押さえると、背後から声。
聞き取れず振り向くと、一瞬、引き戸が閉まるのが見えた。
あれっ、と思って、取っ手に手をかけたが、やはり、戸には確かに鍵がかかっていて、ぴくりとも動かなかった。
なんだ、霊か。びっくりした。
シャーマンの家に育った葉は、ほっと胸を撫で下ろした。
しかし、あんなに急いで、何しに来たんだろう?
首をかしげる葉の横に、柱に掲げられた『安井旅館』の文字があった。
まじまじそれを眺めて、なるほど、と頷く。
そっか。泊まりに来たんだな。霊でも、客がくるのは良いことだ。
葉は納得して、 後でばあちゃんに教えてやろう。そう決めた。
そんな葉が異変に気付いたのは、その15分後だった。
駄菓子屋を見つけて、ポケットから財布を出した時に気付いた。
同じポケットにねじこんだはずの鍵が、ない。
勘違いかと思って、全部のポケットをひっくり返し、どっかに引っ掛かってないかと飛び跳ね、財布の小銭も全部出して、中を覗き込んだ。
が、無かった。
やべえ。なくした・・・・落とした・・・・
葉は凍り付いた。
こりゃやばい、なくすなって、ばあちゃんに言われたのに。
つーか家のカギ、落としたら、どうなっちまうんだ?
葉はどきどき鳴る胸に手をあてながら考えた。
カギが、道におっこってたら、そりゃ、すぐ誰かが見つけて、そんで指紋とかで、家を見つけて、カギを開けて
、家の中の物を根こそぎ持ってっちまうかもしれん。
そりゃもう、ばあちゃんのお金も、オイラのボブのCDも、 冷蔵庫のスイカまで全部だ。
そう考えて、葉は真っ青になった。
そう。葉は、人並みに素直でAHOな子供だった。
それで、葉は地面を食い入るように見つめながら、とぼとぼと来た道を引き返す事にした。
やがて、その足が河原に差し掛かった時、カキンという快音を聞いて、葉は久しぶりに顔を上げた。
先程まで誰もいなかったはずの川原のグラウンドで、子供達が野球をしている。
ちょうど葉と同じぐらいの年齢の子供達。
その喚声やボールを打つ音や、足が砂煙を巻き上げる音が、葉の歩く土手の上まで聞こえてくる。
葉はぼんやり、その光景を眺めた。
何の感情もなく見てやろうと思ったのに、頭の中には漠然とした感情がわきあがって、逃れられなくなった。
頭につけたヘッドホンが、突然頭を締め付けたような気がした。
どれ位そうしていたかわからない。きっとそんなに長くない間。
ふと、見下ろす子供の一人と目が合った気がして、葉は急いで踵を返すと走り出した。
グラウンドが見えなくなっても、川がずっと遠退いても、足は止まらなかった。
ようやく旅館の門にかけこみ、波打つ胸を宥めようと速く息をする。
と、先ほどまでこらえられていたはずの涙が視界を曇らせた。
「・・・・・・っ」
目を拭って、さらに呼吸を落ち着かせた。
夕焼けの近くなる中で、自分が一人だと痛感した。
それを忘れたくて青森まできたのに。
孤独からはどうやっても逃げられないと、かえって突きつけられた気分だった。
出雲でこらえ続けた涙が、次々溢れだす。
手の甲でもう一度乱暴に拭いた。
雫が石畳に落ちて黒い染みを描いた。
頭の中の整理がつかず、視線だけを眼下に投げていると、石畳の端っこに、探してた鍵を見つけた。
そっか、さっき転んだ時落としたんか。
葉は鼻をすすり上げながら、手を伸ばして鍵を掴んだ。
と、突然、びゅうと顔に冷気が吹き付けた。
風は細めた瞳の下の、涙のあとをすっと冷やした。
「アンナ!!!」
光を振り払うように、駆け込んだそこは、
見慣れた、安井旅館の玄関だった。
「・・・・・・・そうだったんか」
途端に、全てを理解した。
この話の始まりを。終わらせ方を。
夕焼けが旅館の広い廊下に赤い光を溶かしていた。
葉は惹かれるように靴を脱ぐと、床に上がった。
一歩進むごとに、足の下で、古びた床がぎっ、と鳴る。
旅館の空気は暖かくて、肩から落ちた雪は、床に落ちるとほどなく水になった。
そうだ、ここは、・・・・・あの日は夏だったな
電話台の向こうの影に、ちょうど壁に背中を預ける姿勢で、幼い少女がうずくまっていた。
薄手の着物の裾からでた痩せた足先に・・・・・・床に、溶け切らない雪の欠片が落ちている。
少女の前まで行くと、葉は足を止めた。
抱えた膝に、顔を伏せたまま、彼女は微動だにしない。
葉は、膝を折り彼女に目線を合わせた。
「アンナ」
「・・・何でよ」
返ってきたか細い声は苛立っていた。
「何で・・・・・お前は私に関わる」
真白い小さな手が、着物の膝を固く握り締めている。
「あたしは化け物なのに。何人この手で、不幸にしたかわからない・・・・自分の・・・母親の命まで・・・・喰って」
葉が触れようとした瞬間、彼女は勢い良く頭を上げた。
「何故死なせてくれない!」
彼女の瞳はすでに、鬼そのものに変わりつつあった。
「あたしに関わらないで!もう放っておいて!」
開いた瞳孔に、憎しみの炎が燃えている。
だが、その目は途端に力を失い、目蓋がすうっと落ちた。
「これ以上耐えられない・・・耐えたくない・・・・・・こんな忌々しい命を・・・もう・・・・終わらせて・・・・」
力なく呟いて、彼女は脱力するようにまた、膝に顔を伏せた。
葉はしばらく、黙って彼女を見つめていたが、ついに、口を開いた。
「本当は・・・・オイラはどうしたってまだ、弱いから」
鼓膜を揺らした彼の声に、腕の中で、アンナは瞳を開けた。
「寂しいのは一番苦手なんよ」
アンナはほんの少し顔をあげたが、力を無くして俯いた目は、葉の顔を見ようとはしなかった。
葉はそんなアンナの手をとり、冷えきったそれを自分の熱で包んだ。
「友達もいっぱいいるけど・・・・いつかは皆バラバラになっちまうだろ。でもお前は・・・・」
そこで葉は言葉を区切った。
アンナの瞳が、葉の顔を見上げた。
葉は、笑顔だった。
「心が読めるなら読んでくれ・・・ってのはずるいか」
こんな照れ笑いを、 あたしは好きだった
アンナの中で、もう一人がそう呟いた
「でも・・・それなら他の誰かでも」
言われて葉は、首を振った。
「オイラは、・・・まだ、迷うこともたくさんあるし、色んなことが不安だし、自分が何したらいいんか、わからなくなっちまう事もあってよ」
「でも・・・そういう時も、アンナは、オイラよりずっと強くて、オイラがどうしたらいいか、いつも教えてくれるだろ」
アンナの手を、大きな掌が握っている。
アンナは、込み上げるものに、滲む目を細めた。
「だからオイラは、お前がいねえと、たぶんダメで・・・・これから先も、ずっと一緒にいてほしいと思ってるんよ」
目の前のアンナが、細い肩を震わせ始めて、葉はその頭を何度か撫でた。
「ま・・・、あと何で好きかとかそのへんは読んでくれるとありがたいんだが・・・・」
しどろもどろ全部言ってしまうと、ようやく葉は長く一息ついて、撫でていた手を引っ込めた。
そしてもう一度、まっすぐアンナに向き直った。
「オイラのわがまま聞いてもらうことになっちまうからな。お前の望みも聞かなきゃならん」
予想しなかった葉の言葉に、アンナは目を瞬いた。
「お前は?どうしたいんだ?」
あたしの、望み?
「あたしは・・・・」
アンナは思った。
何より強く、毎日願っていた事。
親を不幸にして、沢山の人間に嫌われる原因になったこの力を。
あたしの一番の願いは。この忌まわしい力を・・・・
だが、アンナの口から漏れたのは、全く違う台詞だった。
「あたしは・・・・家族がほしい・・・・」
そんな望みを、口にしたアンナさえ、驚いていたのに、
葉はまるでその返答を知っていたかのように微笑んだ。
「じゃあ、今日からオイラがそうだ」
アンナの瞳が潤むのと同時に、繋いだ指が、葉の手を握り返してきた。
「帰るぞアンナ」
言葉の途中で、アンナは彼に抱きついた。
雪のにおいのする金髪に頬をつけ、葉も彼女の体を抱き締めた。
「葉、葉・・・・・!」
アンナはうわごとのように彼の名を呼び続けた。
夕焼けが、アンナの金髪を蜜のように輝かせている。
着物の肩越しに、あの日の夕日が見えた。
今、胸の中にいる彼女の存在が、どれだけ、自分を救ってきたか、染みわたるのを感じながら、目を伏せた。
それでも夕日の明るさと、アンナの体の温かさは、そこにあった。
しかし、しばらくするとアンナは首を振って、葉の体を押し戻した。
どうした、と葉が聞く前に、アンナはまっすぐ彼を見て言った。
「あたしは、まだ行けない・・・・」
告げるアンナの身体が、ゆっくり夕焼けの光の中へ溶けていく。
いや、アンナだけじゃない。葉自身の身体も、薄らぎ消えようとしていた。
もとの場所へ、帰る時間が来たのだ
「アンナ・・・・、何で・・・・・」
葉は不安になって、アンナの手を掴んだ。
すると、アンナは心底泣きそうな顔をして、精一杯微笑んだ。
「私はまだ・・・泣いてるから・・・・・これから、あんたが助けて・・・・・待ってて、いいわね?」
葉は、目を丸くして、アンナを見つめていたが、やがてその言葉の意味するところに気付くと、唇を結んで、はっきりと頷いた。
「わかった。待ってろ」
二人は名残惜しくお互いの顔を見つめながら、繋いだ手を、もう一度きつく握り締めた。
窓から一際眩しく夕焼けが射し込んだ。
その時には、もう二人の姿はなかった。
白昼夢?
葉は、安井旅館の玄関の前、石畳の上、鍵に手を伸ばしたまま、静止していた。
今し方見た夢の名残が、金髪の少女の手の感触が、まだ指に残っている。
変な夢だ。
あの女子は誰だったんだろう。
ちょっとおっかない感じだったけど、可愛かったから良いか、とニヤケながらようやく鍵を拾い上げた。
と、指先に伝わった予想外の刺激にびっくりして、短く声を上げ手を開いてしまった。
鍵はチャリンと鳴って、地面で跳ね、玄関の戸にぶつかった。
鍵は、まるで今まで氷の中にでもあったかのように、冷たく凍り付いていた。
立ち尽くす葉の後ろでは、油蝉が元気に鳴いている。
戸の前に落ちている鍵へ、もう一度、恐る恐る手を伸ばした。
その時だった。
無人の旅館の、夕日の射し込む廊下で、旧式の黒電話がすすり泣くように鳴りだした。
葉は、戸の向こうから漏れる僅かな音に、はっと顔を上げた。
――助けてと、呟いた。
誰にとも無く、届くわけも無く
気力なく布団に寝転んで、涙が枕に染みをつくるのを見ていた。
ある夏の日のこと。
か弱い・・・・・悲鳴が、涙が、目尻から空気に溶けていった
想いは、 水面に波紋を広げるように、響き渡った。
ちょうどその頃男は、別室で、えんじの皮張りのソファに座って、電話の受話器に最後の祈りをかけた。
この一回がだめなら、もう
葉は、鍵を掴み、鍵穴に差し込んだ。
急ぐから、中々入らなくて、葉は力任せに鍵を押し込んで、回した。
カチャンと柔らかな音がして、葉は勢い良く戸を開けた。
切ない、想いは
受話器を伝わり、電話線を走り、街を、森を、道路の上を山間を光の速さで駆け抜けた。
丁度海の向こうに落ちようとする夕日が、
電話線を赤く輝かせていた
まるで、糸のように
やがて、彼女の孤独は、寂れた旅館の古い黒電話を鳴らした。
駆け込んだ安井旅館の廊下には、一面に夕焼けのオレンジ色が溶けていた。
サンダルを蹴り落とし、床に上がる。
足が順番に、赤く輝く床板を叩く。
「急げ!絶対とれ!」
肩で誰かが叫んだ。
夕日が電話を照らして、
黒電話がべっこう飴のように光を反射していた。
手を伸ばした時、遠い街で誰かが最後の決断をするために拳を握った
今、手が届く
触れた
外の夕日の赤さ
固い黒い塗装の重厚感 雪のにおい
掴んだ 指を凍りつかせた鍵
誰かの泣き声 泣くなって、もう、大丈夫だから今助けてやるから
孤独から、救い出すのはあいつと、自分
・・・一人で生きていくのに、この人生はあんまり孤独で、長すぎて 耐えられなくて
オイラは楽になりたいのに
人間なんて嫌いなのに わずらわしいのに
けど一人じゃいられなくて、寂しい思いなんて したくなくて
どうすりゃいいのか、わかんなくて
けどよ今、星の数ほどいる鬼の中から
一緒に歩いてくれるたった一人を 見つけられたから、
それは・・・・・・すげえ、幸せなことだよな
オイラにはお前がいて良かった
受話器を持ち上げ、耳にあてる。
通話に変わった。
受話器の向こうで、相手が息をのんだ気配を感じながら、葉は口を開いた。
「はい、麻倉・・・・・・じゃねえ、安井旅館」
全てを聞いて、アンナは旅館を飛び出した。
一人残された木乃は、ゆっくり下駄を履くと、彼女の出て行った玄関の敷居を跨ぎ、そこで透き通った冬の空を見上げた。
隣で、虎猫が笑った、気がした。
町を駈けながら、アンナは葉の姿を探した。
病み上がりの体にはきつくて、走る鼓動に、胸を押さえて歩調を緩めた。
葉、あんたが・・・
あんただったの・・・・
何一つ心の整理がつかなくて、でも、今は何より、彼に会いたかった。
葉、あんたに 謝らなきゃならないことがたくさんある。
伝えなきゃならない言葉がたくさんある。
今までの全てを
一緒に歩いていく、これから先の未来を
そばをすすって、葉は一口、水を飲んだ。
仕事始めの今日、そば屋の中にいる客は葉一人だった。
前にいない、彼の事を思い出していた。
そして、彼の遺した、一枚の詩の事
『少なくとも 少なくとも』
そうだなマタムネ、お前の言う通りだったぞ
あの日から、もう、オイラは寂しい思いをすることはなかった
ありがとな
葉は手をあげ店員を呼ぶと、天ぷらそばをもう一つ頼んだ。
やがて運ばれてきたそれを、目の前の席に置く。
彼のいたあたりに、感謝を込めて、笑いかけた。
葉。 どこに行ったのよ
今すぐ、会いたい・・・
走れど、彼の姿は見つからなくて、アンナは荒い息をしながら、細い路地の電柱に手をついた。
薄暗くなり始めた夕方、裏路地のネオンが、微かに音を立てて明るく灯った。
見上げた頬に
「あ・・・・・・、雪・・・・」
二人分の会計をすませると、戸を引いて、膨れた腹を撫でながらのれんをくぐった。
降り始めたばかりの雪が、鼻先に着地した。
そうだ、あの日もこうだった。
オイラはマタムネをおっかけて、それで
あの日もそうだったわ。
この道で
あたしは蝋燭を買いに出て、それで――――
二人の口から、白い息が落ち、 違う理由で染まったお互いの頬を見た。
あの日と同じ雪が、ふわりと頭上から舞い落ちた。
糸
2006.5-2010.5.12
ジャム。 ヨル
<end>
***
アトガキ→
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