「お前・・・っ」
葉の動揺した目を久しぶりに見た。
まん太がファウストに開きにされた、あの時に良く似ている。
夕方暗くなり始めた炎の居間に、葉はあたしだけを見て。あたしは葉だけを見て。
怒り。憤り。
恐らくあたしに対しての。
そして、一つ違うものが交ざっていた。
葉は顔をゆがめた。何だろう。恐怖?違う。悲しみ?それとも・・・
ぼんやりあたしはそんな葉を見ていた。
「バカ野郎」
突然葉は、あたしを抱き締めた温かさと対照的に、その台詞を吐いた。
何でそんな言葉を言われるのかわからなかった。
葉の左腕はあたしを抱いて、震えている。
あたしの肩に顔を伏せて熱い息をしている。
右手はあたしの左手首を掴んでた。どうして?
力が強すぎる。熱い。どうして・・・
畳の上に投げ出されたその手。
葉の指の間から、赤い何かが溢れて筋になって伝い落ちた。
消えてしまえと思ったの
この世の人間など全て
消えてしまえと思ったの
こんなあたしなどすぐに
糸
のようだった
この赤い赤い筋
次々に水の中に拡散
するりとほつれたリボンのように流れ
煙のように広がる
いつ得たものかこの知識
ぷつりと切れば途絶える命
あまりに容易い
人の命なんて
あまりに陳腐
あたしはここに一人だった
そうでなくとも
きっと誰も止め等
しなかったのだろう
あたしは最期
ここで消えようと思った。
:巻き戻し
「いとこ?」
「はとこ」
「あ、そう、それでその、・・・はとこの、何よ」
「だから、はとこの友達の、兄さんの嫁の親戚、だったか・・・、ん・・?嫁の父親の・・・?」
「わかったわよ、もういいわ」
ふうと重く息をついた女性は、隣の部屋の襖をうんざりしたように見やった。
「とにかく得体が知れないってことでしょ」
「お前、そんな言い方・・」
「だってそうじゃない、はとこの友達って、誰よ?そこまででもう得体が知れないわ」
夫は言い返す言葉も見つからず、苦悶する顔をして、座椅子の上で腰を動かした。
「それに・・そもそも最初はあの子、どこだったかしら、ほら青森の」
「恐山」
「そう、そこに・・・」
ガタン
と音がして、はっと二人は顔をそちらに向けた。
30センチほど引かれた襖の向こうに、少女がぽつんと立っていた。
暗い中で、白い肌と金色の髪だけが光をうけて輝いている。
少女は、異国の人形のようだった。俯いた頬にまつげが影を落としている。
その顔の端整さが・・・かえって薄気味悪かった。
「・・・・どうした?」
夫の方が先に取り繕った笑顔を無理矢理つくり、少女に問いかけた。
彼女は俯いたまま、「・・お手洗い」とだけ呟いた。
「ああ、もう場所は覚えたか?いっといで」
夫は言って彼女を促したが、肩に触れようとすると、少女はするりと足早にそれをかわした。
彼女が華奢な体を扉との間に滑り込ませ、その扉がまた元どおり閉まると、夫婦の口をどちらからともなく、また、重いため息がついた。
「・・それで?うちの前には・・・はとこの友達のところにいて・・・どうして、そこを出る事になったのよ」
「知らないよ」
「どうしてそう転々としてるのよ」
「そりゃ・・・お前、いろんな事情があるんだろう、犬猫の子をもらうんじゃないんだから」
「・・気味の悪いこと」
「・・・そう言うな」
「だって・・・恐山に・・」
窓の向こうでは、凍てつく寒さが暗闇の中の木々を揺らしていた。
季節は巡り、また冬がやってきていた。
「捨てられてたんでしょう、あの子」
最初に、出会った夫妻の名前は忘れてしまった。
忘れたいから忘れたと言う。忘れた。
明け方、恐山で倒れていたアンナを初めに保護したのは警察だった。
アンナが体力的にか精神的にか、力尽きてすぐの事だった。
非番の警官が雪の中に片足を埋めた少女を見つけた。
「あの雪の中で助かったのは奇跡としか」
枕元で廊下で繰り返された言葉
そう、それはまだ「奇跡」が「奇妙」に変わる前。
雪国の小さな町が平穏だった頃。
アンナと名乗った少女の横たわる布団はどこまでも暖かく、
喉を流れた熱い飲み物はいつもいいかおりがしていた。
面倒を見ると申し出た中年の夫婦は優しかった。
日々は暫く。穏やかだった。
アンナは自分を呪っている運命を知りながらも、少しだけ未来を期待さえした。
いくら周囲の感情が流れてこようと。それが美しいものばかりでなくても。
しかし、そんな毎日はほんの一瞬のうちに過ぎ去った。
決定打はたった一つの言葉だった
「読まれてる」
「あの子に心を読まれてる」
テレビを見ている最中に、突然言った
張り詰めた夫の声に婦人の裁縫の手が止まる。
彼女は笑い飛ばしてやろうかと思った。そんなくだらない言葉。
人の心が読めるなんて、冗談に違いない
そんな人間いるわけない、いるわけないと思いめぐらせ
古時計がコチコチと秒針を進めていた。
カチリと硬い音が鳴ると同時に、少し機械的な音で、振り子時計が10時を告げ始めた。
婦人は少しだけ顎をあげて、首を夫の方へまわした。
その頬の筋肉がひきつり、震えていた。遠い昔の・・・誰かのように
あれは数日前の事だった。
縁側に行儀良く正座をして、穏やかな日の光を正面から受けているアンナを、後ろから眺めてふと婦人は思った。
このおとなしい少女、一体何故恐山にいたのか。
親が無理心中でもしようとしたのか。それとも・・・?
どちらにしてもおとなしすぎる、そう少し、・・・気味悪いくらいに
と、アンナが振り向いた。
視線がかち合って、急いで笑顔を返すが、アンナは真っ青になって、一目散にその場から逃げ出した。
ゆるやかに
そんな小さな違和感が重なりはじめる
いつしか奇妙な不信感が黒々と蓄積されていくのを
アンナは、誰よりも強く感じていた。
数日後の朝目覚めて、アンナは知った。
明日には迎えがくること。
その人達は夫の知り合いで、少し若い夫婦。アンナと同じ年頃の子供が二人いるということ。
電話の返答の声色では、あまり乗り気ではなさそうだが、少しの間ならかまわないと確かに言った事。
しかし何と言われても二度と引き取ってやるものかと
ひっきりなしに二人が思い巡らせているのでうるさくてたまらず、
アンナは耳をふさぐと、部屋にかけこんで布団をかぶった。
そんな夜をもう何度過ごしただろう
はとこがどうのと襖の向こうで言い合ってたあの家さえ、もういくつも前の記憶だった。
アンナは、この華奢すぎる小さな体の少女は、
少しずつ、少しずつ悟っていった。
気づかぬ間に 少しずつ 背負う闇は増えていった。
「なあ」
「なあお前さ」
呼ばれているのが自分だと気づいて反射的に顔をあげれば、まだ見慣れない庭を背景に、
アンナより二つほど年下の少年が休めの姿勢で立っていた。
今日の午後やってきたこの家には、一人息子がいる。
アンナは少年をようく見た。子供のいる家に来たのは初めてではない。
愛情を一身に受けて、目を未来と好奇心に輝かせている少年は、初対面の少女に同じ言葉を繰り返した。
「お前、名前は?」
「・・・アンナよ」
すると少年は、にっと口元に間抜けなほど無害な笑顔をつくった。
生え変わりの最中なのか、下の歯が一本なくなっていた。
アンナは完全には警戒をとかずとも、幾分内心がほころんだ。
どうやら、この子供は新参者のアンナをいじめそうにはない。
「そっか、おれはな」
と言って少年は、やおら地面にしゃがみこむと、がりがりと木の枝で土の上に自分の名前を書き始めた。
アンナも隣にしゃがんで、落ちていた枝を拾い、同じように名前を書いた。
「お前、名前カタカナなのか、変なの」
「あんただって、下手な字。鏡文字じゃない、それ」
「かがみもじって何だよ」
「逆ってことよ、おばかね」
「うるせえなあ」
二人は夕方まで並んで庭にいた。
子供二人分の笑い声が聞こえて、その家の主人は縁側を通りかかると、物珍しそうに腕を組んで二人を眺めた。
向こうの部屋の中では、妻がため息をついてテレビをつけた。
風の冷たい秋の日に、ほんの少し、穏やかな日が落ちていった。
(いつまでいるの)
アンナは、視線だけぴくりとさせた。
だがそれだけで、すぐ食事に戻った。
食事は共に食卓についている他の二人よりも、幾分質素だったが、そんな事には慣れていたので気にならなかった。
むしろ可愛いものだと思っていた。
「アンナちゃん、お茶飲む?」
先ほどと同じ声が、今度は猫なで声を出した。
「・・いただきます」
急須から注がれたお茶は冷めていたけれど、アンナは大事にそれを飲み干した。
「アンナちゃんのお母さん、早く見つかるといいわね」
彼女は明るい語気で言い放った。
今度は、アンナの体が硬直した。
夫は広げていた新聞をがさっとどけて妻を見て、料理から必死にグリーンピースをどけていた少年さえも顔をあげた。
「探してもらっているのよ、警察に頼んだから。すぐ見つかるわよ」
「アンナかえるの?」
少年がぽかんとして問いかけた。
「でも山口のおばちゃん、アンナはおれんちの子になるって言ってた」
「アンナちゃんだって家があるのよ、いつまでもここには居れないの」
「でも山口のおばちゃん、アンナはおれの姉ちゃんになるって」
「できるわけないでしょう、そんな事!」
突然鋭くなった母親の言葉に、少年はびくっと震えた。
子供相手に言い過ぎたと気づいて、彼女もきまり悪そうに顔をそらした。
「やめろ、」
ようやく、夫が遅すぎる制止の言葉を発した。
「・・・食事中だろう」
各々が黙ったまま、また食事をはじめた。
アンナも続いた。
飲み込んだ味噌汁は、涙と同じ味がした。
数日後、少年と父親は手をつないで公園にやってきた。
少年はたまに振り向いて、とぼとぼついてくるアンナをせかすように呼んだ。
ブランコがキイキイと愉快に音を出し、元気に走る子供の声が明るい。
アンナはここに来て、また押し寄せてくる幼い思考の波の中、
それでも、無邪気な子供達の心に、いつもより安堵を感じながら、暖かな木のベンチに腰掛けた。
が、頭に突如として熱い思考が割り込んだのを感じて、アンナはそっちに顔を振り向かせた。
父親が、丁度アンナの隣に腰をおろすところだった。
「遊ばないの?」
若い父親は肩の横にある少女の頭に笑顔を向けた。
アンナは固い表情で前を見つめていた。
砂場で遊ぶ子供が砂の山に新しいトンネルを掘っている。
「アンナは、もう少し活発にならないとな」
男は言って、彼女の見ている方に視線を投げた。
一児の父親であるこの男は、普通の会社員で妻と子を大切にして生きていた。
今は賃貸の平屋しか借りてやれないが、いつかは家族のために新築の一戸建てを建ててやるつもりだった。
仕事にも問題はなかった。強いて言えば、最近赴任してきた部長が口うるさく気に入らない。
普通の人間だった。
「アンナ」
しかし何故、この男は自分を名前で呼ぶのか
アンナはほんの少しの警戒と憎しみをこめて男を見た。
「母さんの事は気にするな」
男は目を合わせると笑った。
きっと、たった今見つけたアリの巣を、口を開けて覗き込んでいるあの少年も、成長したらこんな顔で笑うのだろう。
「ずっとここにいたっていいんだ」
男を見あげたまま、アンナの耳にブランコのキイキイいう音が響く。
同時に子供の(もっと遊びたい)という思考が笑い声とともに響く。
砂場の子供が掘っていたトンネルが、入り口からぼろぼろと崩れた。
同時にこの男の心の中も呟いた。
けれどアンナは聞いた。
「・・・どうして?」
男は目を丸くして・・・それからまた、さっきと同じように微笑んだ。
「女の子が欲しかったんだ」
「アンナー!!」
丁度その時、少年がアリの巣の横で立ち上がって、アンナを呼んだ。
可哀そうな巣を掘るための木の枝で、空気をかき混ぜながら。
アンナはベンチから降りて、呼ばれるまま歩き出した。
頭に男の声が響き、はっと振り向く。
男はベンチに座って腕組みしたまま、アンナを見て微笑んだ
何故か・・・わからないが
怖かった。
何を考えているのか、いや、考えていることが何を意味しているのか良くわからなかった。
ただ、嫌な心持ちがする。
アンナは前に向き直ると、小走りで滑り台にのぼる少年を追った。
いつも、時は、すぐ来る
遠く感じても、たどり着いてしまえば何てあっと言う間
その日もすぐに来た
長かった
やっと・・・
逢った。
起きてすぐ、家の空気が違う事を知った。
外は薄暗くて今にも雨が降り出しそうだ。
居間まで行くと、一人ソファで朝刊を広げる父親が部屋を見回すアンナに言った。
「今日はいないよ。母さんと二人でばあちゃんちに行ってる」
部屋が暗い。
アンナはのしかかるような居心地の悪さを肌で感じて、居間の壁に背中をつけていた。
気配を感じてはっと顎を上げると、アンナの横の壁で電気のスイッチがパチッと言った。
男は読みかけの朝刊を右手に持ったまま、アンナを壁に追い詰めるようにして部屋の明かりをつけていた。
蛍光灯が瞬いて、程なくついた。
けれど追い詰める男の影はすっぽりと大きく、何故かさっきよりも視界は暗い
息苦しさ。踵を返して壁と男の間からすり抜けようとした。が、途端に骨っぽい大人の手が腕を掴んで引き戻した。
「どこにいくんだ?」
「どこだって・・・いいでしょう、手を放し・・」
「親にそんな口の聞き方をするもんじゃない」
掴まれた腕が痛くて、顔をしかめた。
見上げれば男の目が、いつもと違う色を浮かべている―
「騒ぐなよ」
低い声が耳をどすんと付き、肩をぐいっと引き倒された。カーペットの床に背中をぶつけて、アンナは顔をゆがめる。
見上げると、覆いかぶさった男が目をいっぱいに開いてこっちを見ていた。
「い、や・・・、何す・・!!!」
その口をぐっとまた硬い手が覆った。
かわりに四肢が暴れる。ありったけの力で振り上げた拳が男の頬をかすった。一瞬置いてバチンと頬に衝撃が来た。
「おとなしく、しろ!!!捨てられたお前を養ってやってんだ、言う事聞け!!」
脈打ち赤を増していく頬をそのままに、アンナは目を開いて男のしようとする事を見ていた
体に男の手が乱暴に触れる。
男の頭の後ろで、蛍光灯がチカチカと途切れてはつく。
どこかで雷が鳴っている
男が足に手をのばす。恐怖か怒りかわからないものに、食いしばった歯がギリと音をたてて硬直しすぎた体が震える
どうして
どうしてあたしだけが
あたしだけがこんなめに
この黒い感情はなに
怒り
恐怖
悲嘆
寂しさ
寂しさ
違う、これは
これは、
これは、
憎い。
うるさい男の息遣いも母親の嫌味な物言いもあたしを捨てたやつらも皆皆憎い!!!!
世の中も世界もすべて、なくなってしまえばいいのに!!!!!!
フッと、電気が消えた。
「あっ、ひああああ・・・!!うわああああーー!!」
「黙れ!」
がつんと拳が逆の頬を殴りつけた。
衝撃で横を向いたアンナの目に雷の閃光に作られた自分の影が見えた
馬乗りになる男の影が重なっていた
そしてアンナは見た
日が落ちる時のように、自分の影がみるみる大きくなり、男のそれをあっと言う間に呑み込み、さらに黒々と広がり、壁を覆い尽くし、天井に達し、息を荒くする男の背中の向こうで、
次第に形を整え、むくむくと蠢き、
にっと微笑むのを、見た。
何を感じたのかふっと背中を振り向いた男は、その大きな影を見て、ぎゃっと叫ぶとどすんとアンナの後ろの壁に背中をついた。
ぼんやりと今も床に転がったままのアンナを見て、影を見て、驚愕に顔を引きつらせて
「化け物!!!!」
ひっくり返った高い声で叫んだ。
その時、二人の傍らで静かにドアが開いた。
忘れ物でもしたのか、呆けた顔でそこに立っていたのは少年だった。
昨日公園で遊んだ時と同じ、紺色のジャンパーを着て、手には飴を握っていた。
壁に背をついてわなわな震える父親と、カーペットの上に寝転がっているアンナを眺めて、それから二人の向かいの壁に目を止めた。
黒い影。
アンナはようやくよろりと体を起こして、影が「良くないもの」だと悟ったばかりの頭で、口を開いた。
「は、早く・・」
少年の手から包みに入った飴がぽろぽろ落ちて床に転がる。
丸く開かれた目が、今度はアンナを見る。
「逃げ・・・!」
「うわああ!!ちかよんな!!くんな!!」
まっすぐにアンナを射抜いた瞳で。
「化け物!!!」
「・・・え?」
言葉の意味がわからず、口をぽかんと開いた時、どんと背中から突き飛ばされてアンナは横に倒れた。
男がその場から這うように立ち上がり、恐怖に泣き出したわが子の体を抱き上げた。
どたばたと廊下を遠ざかる足音と泣き声を残し、二人の親子は永遠にどこか彼方へ消えていった。
自分のものでない、四角い部屋に一人残されたアンナは、見る目標をなくしたまま、中空を見つめ続けていた。
そのうち、機械のように首を動かして、黒くたたずむ大きな影を見た
これが中鬼と呼ばれる事を、アンナはまだ知らない。
アンナが無心のまま片腕を僅かに動かすと、影もそっと同じ腕をひいた。
稲妻が部屋を照らす。
「あんたは・・」
乾いた唇を動かして。
「あたしなの?」
それは、黒い影でアンナと繋がっていた。
鬼はすっとその膝を折ると、アンナの前に行儀良く跪いた―・・・・
ひっ、
アンナの口から嗚咽が漏れた。
次第に大きくなった。
大きく口を開くと細められた目から涙が流れた。
「あっ・・・うわ・・・あああ」
鬼はたじろぎもせずそこに座っている。
「ああああああ――!!!」
窓の外で激しく雨が降り出した。
アンナはその場から逃げ出した
雨の中を走った。走り続けた。
やがて街中についた。水溜りを跳ね上げる車が、道路に飛び出したアンナをかすり、車の中から罵声を投げた。
たくさんの車とそれよりたくさんの人間が、暗闇と雨のノイズの中ににじみ、明かりの中を蠢いていた。
それは目に飛び込み視神経を伝わり脳内を駆け巡った。
夥しい色の情報より多く、殴り飛ばすような衝撃と共に、全部の思考が一気に頭に押し寄せた。
「あっ・・・」
ねたみ
さげすみ
うらみ
ひがみ
人間の醜さ全てだった。
憎い
憎い
同じ言葉がアンナの頭を埋め尽くす。
憎しみなんて、誰より大嫌いなのに、
憎しまなければならない
これが呪いなのだと気づいた
涙はとっくに、顎にたどり着いたはずなのに
降りしきる雨にまざって、もう、見えない
さっき
床に転がった飴の包みは三つだった
黄色の包み紙
ねえあんた、昨日も持ってたわね、それ
大事そうに握ってた。あの時は一つ
一番好きなんだと自慢してから口に放り込んだ 笑顔
でも今日は三つ持ってたのね
父親と、自分と、あと一つ
ねえ誰にあげるつもりだったの?
昨日遊んだあたしに?
昨日までは人間だったあたしに
黒い影が首に絡みつくようにして、華奢な少女を抱きしめた。
逃げられるはずもない、宿命
さよなら、人間
口の中で呟くと
カーペットを叩いた飴のように、
アンナもまっさかさまに地面に吸い込まれた
卒倒
したのだと思う
記憶がない。
道端に倒れているところを、因果にもまた拾われた細い体をしたこの少女は、一言も話さずに宙ばかり見つめていた。
それでも全快を祈って献身的に介抱をした優しい拾い主は、ある日この世のものとは思えない化け物を見て、
発狂寸前になった挙句、彼女を暗い部屋に閉じ込めた。
数日後、途切れ途切れに響いた悲鳴を偶然にも聞きつけた誰かの手によって、
ようやく彼女は部屋から外に出されたけれど
目覚め扉から踏み込んできた人間の手に抱えられた時
同じように暴れてその手を逃れようとした。
「すぐ楽になる」
ちくっと、腕が痛み。
かすれた嘆きを搾り出していた口が開いて閉じた。
:停止
目覚めて、腕から繋がるチューブを見て、
アンナは誰もいない個室を一人ふらふらと歩いた。
枕元に透き通るガラスのコップを見つけた。
水が半分ほど残っていた。
コップを持った手を、何もないかのようにゆっくりと開いた。
重力にひっぱられて、コップは落ちてがしゃんと割れた。
少し待った。
小鳥の囀りが聞こえる。
気持ちの良い晴れた日だった。
誰も来ない。
床にかがむと、落ち着いた心でコップの残骸の品定めをした。
一番美しく光を反射していたかけらを手にとった。
コップの湾曲をその身に残した、細長い破片だった。
水の滴をまとって、キラキラと輝いていた。
暖かそうな日だ。
今は春だったような気がする どうだったかしら
破片を手首に持ってった。
握り締めた指はがたがたと震えている。
ガラスの鋭い刃は肌に触れるとひやりと冷たい。
半開きの唇もわなわなと痙攣し始めた。
風が窓の向こうで木々を揺らしている。
きっと風は心地いいだろう。風は好き
窓の外は中庭のようだ
かすかに、のどかな人々の笑い声が聞こえた。
かすかに、ほんのかすかに、その人の心の声も聞こえた。
みるみる熱く滲んでいく目をぎゅっと閉じて、
「アンナ・・」
アンナは一気に、力を、込め
「アンナ」
それが最初の傷だった
痛みでなく
呼んでも誰も来ないという事を知って
この思考の数だけいるはずの人間の中
ここに一人きりでいる事実を突きつけられたようで
ただひたすら、
・・・寂しかった
から
逃げ出したかった
「アンナ」
「・・・何で」
声を聞いて目を開けば、
薄暗い居間の風景が見えた。
いつものこたつといつものテレビ。あたしの家。
自分以外の呼吸が聞こえた。
黒い髪が見える。
あったかい体温。葉だ。
葉がいる。
ここは炎の居間で、もう日は沈みきって、電気もつけずに随分暗いけれど、
どうやら葉があたしを抱きしめてくれている。
なんて、幸せな時。
ここが、現実。
「アンナ・・・お前どうして」
何・・・?
「こんな事」
畳の上に、転がったカッターナイフ。
暗い中で、何か液体を数滴、まとわせている。
何て抱き合いにくいんだろう。
葉はあたしの手首を離さない。
カッター。
液体。
手首が熱い。
「アンナ」
葉の悲痛な声が、またあたしの名前を繰り返した。
葉が何故こんなにも、大事そうにあたしを抱き締めてくるのか、
微かに思い出した気がした。
あたしは自分に出来る精一杯で、片手できつく葉を抱きしめ返した。
ねえ
違うの葉
違うの
あたしはそんな昔の事なんてどうでもいい
思い出しても今更涙も出ない
だから
そんなんじゃないの誤解よ
ただ
ただね
帰り道少し用があって、あたしは池袋線で都心まで出たのよ
人が多くて本当に鬱陶しいったらなかったわ
なのに因果
雑踏の中、あたしでさえ紛れてしまう程だったのに
あいつはあたしに肩をぶつけた。
その上、後生丁寧に振り返り、謝罪など吐いた。
そしてあいつはあたしの顔を見た。
あたしはあいつの顔を見た。
驚いて口を開く顔も昔と何も変わらないじゃない
足は根が生えたようにその場に釘付け
あいつの顔がみるみる驚愕するのとか
人込みの流れだとか
全部スローに見えた次の瞬間
はじかれたように踵を返してあたしは走った。
ねえ笑ってもいいわよ このあたしが
このあたしがこのあたしが・・泣きながら逃げ帰ってきたなんて
電車の中で止まらない涙をしゃっくりあげながら拭っていたことなんて
窓から射す夕焼けが頬を照らす中で、あたしは早く家に帰りたくてたまらなかった
遅すぎる電車を蹴飛ばしてやりたかった
そして過去をリピート。
ただし記憶はない。
あんたの声であたしは目覚めた。 「ただいま」
畳から上体を起こすと、横たわっていた世界が、まっすぐに座りなおした。 「アンナ?」
しかし頭の覚醒は追いつかず、夢の中を歩くように何もかもがおぼろげだった。
もう部屋は暗い。電気をつけなきゃ。
ねえ襖を開けたあんたは、何を最初に見たの。
「アンナ!!」
鞄をその場に落っことして、葉は部屋に駆け込むとあたしの右手をぐいと掴んだ。
コトンとどこからかカッターナイフが畳に落ちた。何で?
ほとんど同時に葉はあたしの左手首を掴んだ。
少し乱暴だった。小さな赤が一粒飛んだ。
あたしをまっすぐに見て、崩れるように膝をついて、
唇を開いて、息を吸って・・・
「お前・・・っ」
違うのよ
あんたを困らせるつもりなんてなかった
さっきまであたし
少し昔に戻ってた
もう大丈夫よ
だってあんたが帰って来たもの
もう大丈夫・・・大丈・・・・
「どうしたんよ・・・・アンナ」
葉の声が胸から聞こえた。
震えた声。どうして?
あたしにもわからない
この運命に生まれたわけも
母の事も父の事も
あいつらの誰の事も
心なんて読めても所詮何一つわからなかった
畳の上に、葉の指に阻みきれなかった黒い液体が広がっていく。
これは母さんと分けたものだ
ぽつりと考えが浮かんだ。
深い水の底から花びらが浮き上がるように ひとひら
今どこで
どうしてるとも知れない、あの人
繋いだ手は温かかった?
微笑んだ笑顔はどんな?
顔さえ遠くぼやけてしまって もう 見えない
でも知ってる
この世に
今のあんたより温かいものなんて ないの
だからただ この温もりだけは
ああただ・・・今は
左手なんてどうでもいいから
あんたに両手で抱いて欲しい
・・・お願い
あたしを離さないで
next→
***
後
お疲れ様でした。
お読みいただきありがとうございました。
とてもお待たせした「二」でした。
とても長い二でした。
ツッコミどころ満載の激イタ話ですが、お怒りでないことを祈っております。
当初の予定を覆してあと2話か3話行きそうです汗
まったしお待ちいただければ幸いです。
感想などお待ちしています・・・!では。
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