これが最後だ。
途端に何もかもが嫌になった。
もし・・・この電話がかからなければ、諦めよう。
終わりにしよう。こんなバカげた事は
これ以上、自分たちが抱え込む類の厄介ごとではないはずだ。
何故こんなに必死になってる?
時間を割いて、気を張って疲弊して・・・
たった一人の、・・・子供の為に。
これは悪意じゃない。悪意じゃないんだ
何十年も、この施設にいる、子供達の幸せだけを祈ってきた。
でも。
あの子は・・・・あの真っ白な肌の小さな少女だけは・・・・・・
彼女の冷えた瞳を思い出す。
何もかも恨んでいると責めるような、強い、鋭い視線。
まるで、見つめる人間の心を見透かすような眼差し
まるで、 『心を見透かすような』 眼差し
思い出すだけでぞっとする
『それ』に気づいてしまった日から、もうまともに、顔を見る事さえ恐ろしかった。
もはや、自分は、あの子供が・・・
・・・あれが
『子供』かどうかさえ、わからないのだ
だからこれで最後にしよう
あれをここから追い出す、たった一つの手段。
目の前のメモに、一行の電話番号。これが自分に残された全て。
この一回がダメなら・・・もう
子供がひどく怯えている。みんな怖がっている。それだけで理由は十分だ。
・・・どこへ・・・どこかへ・・・そうだ恐山
恐山でいい。あの場所ならきっと
思い巡らせながら、順番にボタンを押す。
何度押したかわからない数字の列。もう覚えてしまった小さな民宿の番号。
むずがゆいようなつまった電子音の後に、こもった呼び出し音。
すぐに「聞き飽きた」という感覚が脳内を満たした。
不在なのか、何度繰り返しても繋がらない電話。
誰もでないという思いが濃厚になった。自分が再度かけたことにさえ後悔した。
だがその時、ガチャ、と真新しい音が思考のすべてをたたき切った。
彼は一瞬窓の外の夕日に視線を投げ、一週間ぶりに肩の力を抜いた。
そして、安堵と共に次の言葉をつむぎ始めた。
見つからない
探してる この箪笥の奥
探してる 遥か彼方の記憶
探してる 手繰る幾年を 超えても
幾星霜超えても
足元に手繰り落とした赤い紐は、床に血溜まりの如く限りない輪を描いた
この線が深紅なのは握り締めるあたしの手が焼け付くせい
それでも 嗚呼 放すもんか
擦り切れた掌に血がにじんでも 手繰り寄せる
今是だけが最期の希望 文字通り今にも千切れそうな赤い紐
近付いているのか 伸びているのか 期待しているのか 諦めているのか すでにわからず悠遠を超えた
もし、やっと引き寄せた向こう側の端に何もなく、虚空からするりと抜け出して、重力に抗わずぽとんと落ちたら 落ちたら
嗚呼・・・きっともう 其が今度こそ最期
お願いどうか 遠くに居てくれる筈の貴方
その存在のあやふやな影に指を伸ばして
届くのか・・・
手繰る
どこまでも手繰る赤い
糸
駅のホームを一歩進む度に
夜行列車の駅まで、一本一本電車を乗り継ぐ毎に
過去の記憶が蘇る 葉の存在が遠くなる
少しづつ大気が冷えていく
粟立つ肌が、心がそう感じている
青森はもう 雪深い季節だろう
: 麻倉 木乃
それは、蝉の声がうるさい、夏の昼の事だった。
木乃は台所で一人、昼ごはんの準備をしていた。
食卓に置いたラジオから、明日の天気を告げるニュースが聞こえていた。
宿泊客以外で来客の予定があるのは実に数年ぶりの事だったが、かと言って変わりばえする生活でもなかった。
聞けば少女だと言う。それも自分の孫と同じ年の。
『曰くつき』の。
扇風機が低いうなり声を上げている。
と、縁側の方で猫の鳴き声が聞こえた気がして、木乃は顔を振り向かせた。
見えないはずの目に、一瞬、虎猫が庭を横切るのが見えた気がした。
木乃は何かを言おうとして・・・その口をもう一度つぐんだ。
前に向き直った時、蝉の声がやんだ。
真夏の太陽が流れた分厚い雲に隠された。
辺りに落ちていた窓からの日差しが、残らず影へとかわる。
傍らで、ラジオから流れる音声が、ぷつ、ぷつと途切れた。
安井旅館の玄関の前で、二つの足音が止まった。
一つは大人と、・・・もう一つは子供の足音だった。
静かになった旅館の中に、呼び鈴の音が響き、木乃は眉をひそめた。
続いてドンドンと叩く音。木乃がありったけの声で「聞こえてるよ!」と一喝すると、それきり、音は止んだ。
鍋にかけていた火を止め、ラジオを切り、木乃は台所を出た。
玄関へ一歩踏み出す度に空気が冷えていくのを感じる。
もう気づいていた。
戸の向こうに立っているだけの彼女が巻き起こす闇に。
すでに旅館全体を包み込む暗黒の、その重さが尋常でない事にも。
そして、その姿が、想像よりもずっと小さく、折れそうに華奢だという事も、わかった。
なんとまあ・・・
昔、誰かが呟いたのと同じ言葉を思い、木乃は玄関におり立った。
足袋が土間床の冷えた空気を切った。
: 嵐
天井の向こうで何かが壊れる音がして、木乃は繕い物から顔を上げた。
小さな同居人が来たその日の夜。
その場に仕事を放りだし、立ち上がると、びしりと関節が痛んだが、気にしている暇はない。
どっちにしろ、この一日が静かに終わるなんて期待はしていなかった。
外では夏の嵐が、ごうごうと深まった緑を雨と一緒に吹き上げている。
駆け込んだ二階の部屋には、ガラスの破片がそこら中に散っていた。
襖の敷居から、畳へ踏み込んだつま先に鋭い痛みが走り、木乃は見えずとも、長年の勘をもってその惨状を感じた。
透明な住処を奪われた日本人形は、畳の上に造作もなく転がっている。
混沌の中心、窓から入るどす黒い風を背に受けて、少女はどこから見つけ出したのか、出刃包丁を握り締めていた。
少女の小さく細い手に似合わず、ずっしりと重量感をもつそれが、ひゅうと空を切って振り上げられた。
ぎらりと刃が漆黒の闇を映す。顔に絡む金髪に見え隠れする少女の目には狂気
彼女が目掛けているのは、自らの、左手首。
もともとそこに結ばれていた包帯が、雨風に打たれ、濡れて汚れだらしなく解けて絡まっている。
耳をつんざく叫び声。自分の喉から額から飛び出して鼓膜を貫く、鋭い。
むき出しの巫力と寒気に足をすくめ、木乃の脳裏を思考が過ぎる。
ああ・・・この子は。
どれだけ叫んできたのか。
誰も受け止められないこの声を。
奮い立たせさらに踏み込んだ木乃の姿は、アンナの視界の端でスロー
絶叫という名の嗚咽が、渦巻く恐怖を身になじみきった安堵に麻痺させる。
それが、最後と思っていたのに
身体への断続的な、揺れ。
一瞬チェーンのついたタイヤが、雪の上を叩く音が聞こえた気がして、怖気と共にアンナは両目を開いた。
だがそこは、狭い車の中ではなかった。
耳に届くのは微かな、ガタン、ガタンと線路の上、金属の車輪が走るだけの振動音。
東京を出た時は夕焼けだったはずの夜行列車の車内は、もう深い夜の闇が包んでいる。
目覚め、無意識に触れた指先に、包帯の感触があった。
毛布から手を出せば、左手首に物々しい包帯が現れる。
もう少し軽い手当てで済むまで待てばよかったかもしれない。
目の見えない木乃でも、いや・・木乃だからこそ、何かの拍子に気づいたら、いらぬ心配をかけてしまう。
しかし時は遅く、アンナはすで列車の揺れに身を投じていた。
指がまた、包帯を撫でている。
・・・葉が結んでくれた結び目を、解いてしまわなければ良かった。
人差し指は絶えることなく、布の上を往復する。
何だろう。この感覚は。指が感じるこの感触は・・・そうだ
「懐かしい」
のだ。この包帯の粗い触り心地が。
もちろんこの感触には、いい思い出など一つもなかったから、普通の・・・他の思い出の懐かしさとは遥かに逸していたけれど。
何年前になるのだろう。この手に包帯の絶えない頃があった。
身体を起こすと毛布がするりと落ちた。こぼれた肩が寒い。
しっかり引いたカーテンを指でどけると、月明かりに沈む夜空の下、大地は遠くの山まで真っ白だった。
寝静まった時刻。
ほんのりとした月明かりの中、鞄を探って見つけた腕時計は2:17を指していた。
この腕時計は茎子が去年の正月、出雲の広い家でプレゼントしてくれたもの。
正月の集まりで賑やかに宴が催される中、茎子が肩を叩いた。
ついていった部屋で、箪笥の中から大事そうに出された小さな箱には、赤いリボンがかかっていて。
茎子は柔らかい笑顔を浮かべて、あたしにそれを手渡した。
その場でありがとうと言ったのに、今日までずっとしまっていたのは、特に必要を感じなかったからだ。
そう自分に言い聞かせていた。
あの包むような彼の母親の笑顔に、何か後ろめたさを感じたからではない、と。
アンナは文字盤のガラスの上、さっき包帯にしたのと同じように、ゆっくりと指を往復させた。
秒針は確実に進み、自分を乗せる列車もまた、音を呑み込む白い大地を滑っていった
葉は、もう寝ただろう。
自然に浮かんだその名前に、包帯とは違う、胸を掴むような愛しさがあった。
葉、今日も修行したかしら。ちゃんと髪乾かして寝たかしら
野菜食べたかしら・・・・・・
居間の、テーブルの上にたった一枚の書置きを残して、
アンナは葉が学校から帰るのを待たずに、少ない荷物を持ち上げて炎を出た。
書置きの内容?他愛も無い
『葉へ 下北へ行ってくる。いつも通りの特訓しときなさい。 アンナ』
きっと家に帰った葉は、まず玄関に鍵がかかっているのに、息を呑んで、
家の中、あたしの事探すんだろう。
サンダルなんて玄関に蹴り落として、あたしの名前呼んでさ
居間の手紙を見つけて、最初は大層びっくりするに違いない。
そっけない内容を見て、ほっとしたり、途方にくれたりするはず。
そんな愉快な様子を想像して、久しぶりに顔がほころんだ。
しかし、東京の方角さえわからない今、
葉との距離をどんどん伸ばしていると気づく
孤独は不安と等しかった。
外は凍てつく寒さ
カーテンの隙間から覗いた深夜の世界には、生き物なんてまるでいないように思えた
皆は暖かい部屋で眠っている。
雪の上に放り出されたのは自分一人だった あの日 確かに
包帯。
怖い。
忘れきれない過去の映像がフラッシュバックする。
腕時計をぎゅうと掴む。
葉の顔を考える。
ほんの少し、落ち着いた。・・・気がした。
卑屈になっちゃいけない・・・
あたしは、・・・区切りをつけるために、ここにいる、はず・・・
全てを終わらせる為に
何らかの答えを見つける為に
ゆったりと流れる風景を背に、
宙を幾筋も走る黒い電線だけが忙しなく波打つ
こんな寂しい世界で、誰を繋いでいるんだろう
思ってまた、毛布をあごまで持ち上げ、目を閉じた。
:豪雨
「今日からここで休みな」
短く老婆は言い放って、襖を閉めた。
振り向かず襖が閉まったのを耳で感じたが、アンナは一向にその場から動かなかった。
古びた、ずっと誰も使ってなかっただろう部屋。だが、良く掃除され、清々とした日本家屋の匂いがした。
外では豪雨に加え、遠くで雷が鳴り出していた。部屋が刻一刻と暗くなっていく。
【イ タ コ 得体がしれな あさくら もの同士 やっかい 払 い祓い 麻くら 木乃】
何一つ説明は受けていなかったが、此処の情報はあらかた集まっていた。
明らかにいつもと毛色が違った。
粗末なくせに隅々まで清められたこの旅館に加え、特にあの老婆と来たら、どれだけアンナが憎しみの感情をぶつけても、どっしりと百年もそこにある岩のように構えている。
苛立たしい。
きゅうとアンナの目が細められ、瞳が暗い輝きを放った。
【モチはモチ屋 鬼は鬼】
自分をここに送り出した人間は、背中を向けて最後に目でそう呟いた。
自分だけでなく、老婆にも向けられた畏怖の眼差し。
それが全てを物語っていた。
そうか同類か・・・
一瞬後、嘲笑するように唇の端が持ち上がる。
同類?あたしと人が?・・・まさか
「ーーーーー」
途端にクスクスという忍び笑いが横をかすめた。
背中から這い出た黒い影が、鬼になってアンナの前を歩いている。
鬼は主であるアンナを見向きもせず、一直線に進みながらゆっくりと薄れ、程なく消えた。
アンナは鬼を追って導かれた視線のままに、そちらを見やった。
押入れ。
足がひかれて行く。
遠い昔、白かっただろう戸は、今はすっかり色あせ黄ばんでいた。
しいんと空気が鳴く。
吸い寄せられるように、黒い丸いくぼみに手をかけ、横に引く。
暗闇の中から
「産んでない!」
あの人の声だった。
アンナの眼が、大きく見開かれた―――時には、もう幻は消えていた。
押入れに収納されていたのは、布団一式と、下段、背の低い年季の入った押入れ箪笥。
アンナは押入れの前に膝をつくと、箪笥の引き出しの前面を、上からそっと指先で撫でた。
下段の、鉄の取っ手に爪がかかると、握って引いた。
引き出しの中には、大小いくつもの箱が詰め込まれていた。
引き出物や何かを片付けているのだろう。
だが、不思議とアンナは、『あれ』がここにあると確信していた。
やがて奥底から、探し物を見つけた。細長く、平たい箱だった。
蓋をとると、ねずみ色の刃が蛍光灯を鈍く反射した。
ごろりと重い、出刃包丁。
黙って見下ろす隣には、鬼がしゃがんでクスクス笑う。
立ち上がると、空箱だけが膝から床に転げ落ちた。
鬼はいつの間にか部屋の隅の影にしゃがんで、ひっそりとこちらを伺っている
途端に苛立ちが膨れ上がり、近くにあった日本人形をガラスケースごと腕で横に凪ぐようにして投げつけた。
ガシャンと耳ざわりな音が響いた。
握った包丁にも小さな鬼が絡みついている。幻?どっちだって同じだ
窓を開けた。吹きすさぶ嵐に、雨の粒が痛いほど吹き付ける。
することは一つしかなかった。
もう、もう、これで最期にしてくれと祈りを込めて腕を振り上げた。
「馬鹿者!!!」
老人の皺だらけの手が頬を打ち、落ちた刃が畳に深い傷を付けた。
鼓膜に鋭くバシッと響いた音に一瞬頭が真っ白になった。
直後、我に返ると、打たれた悔しさが湧き上がり目の前の人間を睨みつけた。
叩かれるのはいつだって嫌いだ。
それもこんな弱弱しい老人の平手が、自分を驚かせたことが屈辱で、
いつものように、手に負えないと追い出されるまで暴れてやろうとした時、木乃の足が視界に入った。
白い足袋の裏から、じわりと赤が染み出している。
畳に散ったガラスの破片、踏み込めば無数のそれを踏むのは当然のこと。
そうだ、目が見えないのだ、こいつは
だから気づかず立ち入ったんだ。
愚か者だと思った。
後悔しているんだろうと思考を見渡してやった。
しかし、木乃の思考のどこにも足のことは無く、
かわりにアンナのことばかり思い巡らせている。
なんて・・・煩わしい。
アンナは木乃を思い切り睨みつけた。
産まれてこの方、自分を生け捕らえている途方もない苦しみから逃れるための唯一つの手段、命の断絶。
死への期待と、覚悟を踏みにじられ、憎しみでいっぱいの眼光だった。
安穏と生きている者の偽善や同情が、一番許しがたい。
しかし、木乃はそんな視線には気づかなかった―――見えなかった。
アンナはやがて、それを悟ると、怒りの冷め切らない頭を俯かせ、木乃の顔を視界から追い出した。
唇を噛み、伸ばされた木乃の手を、せめてもの抵抗に振りほどいた。
が、途端に足元がふらつき、不覚にも膝が折れ、倒れこんだアンナを受け止めたのは、またも痩せこけた老婆の腕だった。
朦朧とする意識の中、打たれた頬がじんと熱くなっていった。
その日から、アンナは自傷する事をやめた。
そうして寂れた旅館に、二人で静かに、本当に静かに日々暮すようになってから、漸くアンナは変わっていった。
ヒステリーを起こすこともなくなり、ただただ、四角い部屋に引きこもるようになった。
布団に片頬を埋め、目の前の人形の目を見つめ
天井を見ては四隅を数えて
窓の外の高い空と、ガラスを打つ雨を映して季節を過ごした。
木乃は最低限の事を言いつけた。
買い物だったり、ささやかな家事であったり
アンナのやれる事は、少しずつ増えていった。
けれど木乃には、アンナの中で、一つ一つ何かが消えていくようにしか思えず
歯がゆさと共に自分の無力を責めた。
話さない人形を好きになった
心のない人形を
「でもそれは人の容をしている お前の嫌いなヒトガタを」
だって寂し
鏡が映す私も人の容をしている
「お前が人だと」
いいやあたしは鬼 でも でも
ああ・・・
人恋し
抱きしめた着物姿の人形は、感情もなく描かれた顔で途方を見ているだけ
お前に心があったなら と、何処か望み
お前に心があったなら と、何処か恐怖に怯える
人のその心まで、あたしは愛することができない
あたしはこの心まで誰かに愛される自信などない
この醜い心を抱いたまま、どう繋がっていけばいい?できない
でも でも
ああ・・・
人恋し
このあたしごとに愛されることがあるとしたら
胚の記憶と流れる先の不確かな幻影
:今昔
「あの頃は、すっかり生きる気力を亡くしていたね」
木乃は背中を向けたままで呟いた。
手元で役目を終えたマッチの火を振って消した。
蝋燭に燈った灯が、ゆらりと揺れる。
それを確認してから、皺の手で封を切ったばかりの蝋燭の箱の口を閉じた。
そんな後ろ姿を見ながら、もう少し、炬燵の奥に膝を進めた。
肩まで潜るように背中を屈めると、自然に頬が机について目を伏せた。
「迷ってるのかい、あんたが」
「・・・そうね」
しゅん、しゅんと、古いストーブにかけたヤカンが、向こうの部屋で湯気を上げている。
「なあに・・・悩みゃあいいのさ。何も急ぐことじゃあない」
ぼんやりと顔を上げると、木乃がこっちを向いて笑っていた。
「ゆっくりしておいで、たまに帰ってきたんだから」
思わず頬が緩んだ。
「・・・ありがとう」
正直な話、この一件が始まってからというもの、ここまで安堵を感じたのは初めてだった。
葉といる時でさえ、全てを伝えきれないもどかしさと罪悪感に、いつもどこかで気が治まらなかった。
「感謝してるわ」
感謝なら何年も前から。自分が頭の上がらない人間がいるとしたら、それはこの木乃一人だけだ。
「なに・・・・・・礼を言うのはこっちさ」
「何言ってるの・・・」
「私が、あんたを麻倉の戦いに巻き込んでしまった」
それがどれだけ過酷な運命であるか。
麻倉の許婚として決められたアンナの、背負うものの重さは、葉のそれにさえ匹敵するだろう。
ただ、ここに拾われたというだけで、アンナは戦いの日々に巻き込まれた。
天性の絶対的な力を、麻倉の、葉のために使うようにと、環境をもってして、蝕むようにそれが自然と思わせた。
幼いアンナに拒否権などなかった。
「でも、ここに来なければ、あたしはきっと今日まで生きてなかったわ」
もし麻倉に流れ着かなかったら、
鬼を産み出して産み出して、やがて自ら鬼となるか、
あるいは先に肉体が限界を迎え、人間らしく野垂れ死ぬか、
道は二つに一つだったろう。
麻倉に拾われる以上の幸せなどなかっただろう
「あたしを救ったのは木乃・・・・あんたと、葉。だから私はその恩を返すだけよ」
木乃の心を過ぎったのは、二人の子供を呑み込んでいる、強大で凶悪な運命の影だった。
かわってやれたら、と思う。
だが、「もしも」は「もしも」でしかなく、自分達は未来の重荷を全て子供達の肩に託すしかなかった。
「・・・大人は無力なものだね」
「木乃」
何か言おうとしたアンナを手の動きだけで遮ると、木乃は立ち上がり部屋の向こうの箪笥へ向かった。
一番上の引き出しを開け、何か白いものを取り出した。
アンナには良く見えなかった。
木乃はそれを、指先で挟むに十分な、小さく折りたたまれた紙片を持って、
こたつからこちらを見上げているアンナの前に丁寧に腰をおろした。
差し出されたそれに、アンナは惹かれるように手を伸ばした。
「連絡先が書いてある」
びく、とアンナの全身が硬直した。
「電話で詳しい事は聞かなかった。これはあんたが昔いたところの住所さね」
アンナの大きな目は、見開かれて木乃の顔を見つめていた。
「どういう経緯でここに至ったかも、まだ聞いてない。あんたの問題だからね。・・・知りたかったかい」
アンナは首を振った。
木乃はずっと考えていた。
自分達の祖先であり、宿敵である男と同じ力を持つ、アンナ。
果たして麻倉に流れ着いたことは偶然なのか、不運だったのか、それとも必然だったのか
この娘に強いていることを、正当化させる為だけの調子の良い発想かもしれない。
けれど・・・
アンナを翻弄するこの能力の一端に、本当に麻倉は関係ないのか?
考えて、答えが出るはずも無かった。
「・・・・・・」
アンナの視線が目の前の紙切れに落ちる。
顰められた眉に、少し不安の色が濃くなった。
やがて手をのばすと、アンナはその紙切れを受け取った。
汗ばんだ手の中に、確かな感触が届く。
と、木乃が再び腕を伸ばし、紙片を握るアンナの手を、両手でしっかりと包み込んだ。
「どっちにしろ、何もしてやれない・・・」
木乃の指が、アンナの手首の包帯を撫でる。
皺の手は暖かかった。
「馬鹿だね・・・一人で悩んで」
アンナは何度となく差し伸べられてきた、その手の存在をようやく思い出した。
自分の為に傷ついた事もあった。打たれた事もあった。
でも、初めからずっとこの手が好きだった。
「何も怖がることはない」
どこか悲しそうに微笑んだ顔は、遠くにおいてきた彼に似ていた。
「ここがある限り、二度とあんたは帰る場所を失ったりしないさ」
木乃、と名前を呼ぼうとしたのに、
胸がつまったようになって言葉にならず、俯いたら視界がぼやけた。
ここにある手をずっと見ていたいのに、こみ上げるものは止まらず、
瞬きがいくつも涙の粒を払った。
恐れることなど何もないはずだった
自分の顔をまっすぐ見つめる、木乃に出会った日から
葉に会って、その心に触れたあの日から
手首の深い傷は消えなかったけど、一つ一つ薄らいでいった。
その微かな痕でさえ、ある夜、葉が愛おしそうに唇で辿った時から恐ろしさは消えてしまった
今更、恐れることなんてないのだ
自分の部屋に戻り、冬の白い日差しの眩しい中、アンナは窓辺に座った。
片手にはあの紙片があった。
折り目のついた紙は、開いてもやはり小さくて、慣れ親しんだ木乃の端正な楷書が並んでいる。
昼ぐらい食べていきなと木乃が言ったから、時間を持て余してしまった。
階下から食事の準備をしている音が聞こえる。
手伝うと3度言ったのに追い返された。
たまには休めば良いと言われて笑ってしまった。
それを見て、何だやっぱり働いてないのかい、と呆れた顔をするものだから、また笑った。
葉が聞いたらどんな顔をするだろう。
きっと・・・・
考えていたら時間が過ぎた。
そのうち木乃が、準備ができたと告げに来た。
施設の事を思い出した。
と言っても、方々たらい回しにされたから、記憶が何処まで正しいかは定かじゃない。
けれど、山間の田舎町にあったその施設は、麻倉の家に来る直前にいた所であった為か、他の場所より幾分鮮明に覚えている。
古い校舎を仕切るのは人のいい老年の園長で、曰くつきのアンナをも受け入れようと、心の底から努力した。
だが、言うまでも無く、努力は無駄に終わった。
きっかけは何だったか、いらだちが鬼を産んで、窓ガラスを割った。
数人の子供と、園長その人も怪我をした。
感じたのか、それとも見てしまったのか、その日から彼はアンナへの恐怖を露にし、思い悩み始めた。
手を尽くし、次の貰い手を探し回り、見つからず、追い詰められて、ある日思いついた。
恐山へ捨てようと・・・思いついた。
アンナはそんな彼の思考を背中で聞いた時、極力気づいてないかのように振舞った。
自分はここにいてはいけないと知っていたから。
その日まで、何度も自傷行為を繰り返していた。でも叶わず、別の方法を探していた。
始まりの場所である恐山に、また捨てられようとしている事を知って、因果を感じると同時に、こういう結末なのだと悟った。
その一方で、夜になれば孤独と恐怖に一人震えた。
怖い。
怖い。死ぬのが怖い。
捨てないで。もうあそこには行きたくない。
本当に怖いのは、冬山の寒さか、絶望か。それとも、目の前の人間の心なのか・・・
助けてと、布団の中で呟いた。誰にとも無く、届くわけも無く
気力なく布団に寝転んで、涙が布団に染みをつくるのを見ていた
ある夏の日の事だった
だが数日後、事態は一変し、
すっかりやつれてしまった園長が、園長室にアンナを呼んだ。
覚えている。絨毯の上のえんじ色の革張りのソファ。
年季の入ったソファは大きくて、細いアンナの足は、床に届かず空中で揺れていた。
アンナの向かいに腰を降ろして、園長は「行くところが見つかった」と静かに告げた。
生きながらえた と思いつつ、
果たして生き抜く事とどちらが地獄か考えた
執行猶予をもらったのか、拷問の続行を言い渡されたのか、どちらだろう、と。
ところが、向かいのソファに座る園長は、出会った頃より20歳も老け込んで、
頭を俯かせ、膝の上の自分の拳を見ながら、心で何度も何度も、アンナに謝罪を繰り返していた。
捨てようとしてすまなかったと、何度も。
過ちを犯そうとしていたことを。
それでアンナは、生きていて良かったのだと、思う事にした。
蝉の鳴き声がしていた。
外はこの部屋に到底似合わぬ、草いきれの香り溢れる初夏だった。
今あの時と同じソファに、アンナは腰掛けていた。
来客用の茶色いスリッパは、かかとまで床について、絨毯の柔らかさを足の裏に伝えている。
「ごめんなさい、待たせちゃって」
扉を開けて入って来たのはふくよかな女性で、中年と呼ぶにはまだ若かった。
アンナの向かいのソファに座る。笑顔だった。
あれから、7年が経っていた。
先代の園長は一昨年の暮れ、亡くなったという。
施設は建て替えられ、あの時いた子供達は一人残らず旅立った。
この腰の下のソファ一つ以外に、アンナの知る物は残っておらず、
また、アンナを知る者さえ、誰一人いなかった。
今施設を預かっているこの女性は、先代の園長の娘で、父の死をきっかけに田舎に戻ったとか、そんな話だった。
どうやらアンナがここにいた数ヶ月の事を何も知らないようで、元住人の訪問を喜び、心から歓迎してくれた。
昔はああだった、こうだったと楽しげに言うが、アンナの方は思い出が思い出なだけに話しづらく、
会話が途切れがちになったところで、ようやく切り出せた。
「・・・それで・・・、・・・電話の件は・・・」
自分らしくない弱い声が出てしまった。
それに気づいて情けなくなり、せめてもと気丈に顔をあげる。
すると目の前の人間が、逆にアンナから目をそらした。
「ああ・・・そう、・・・父が昔、あなたの身寄りを探して色々声をかけていたみたいで、連絡が来たのよ・・・その、もしかしたらって」
彼女は細かく話してくれた。
どういう経緯でたどりついたのか、間を取り持ったのが誰だったか、色々な事情で今日まで時間がかかってしまった事、縷々と説明を続け、散々遠回りして、でもアンナは一語たりとも聞き逃さずにいた。
そして、彼女は最後に付け加えた。
「本当に・・・残念だけど」
:帰郷
予感がしていたのは、それが血の繋がりだとでも言うのだろうか。
どちらにしろ、予想しうる一つの結末にすぎなかった。覚悟はとっくにしていた。
1993年、1月、遠く離れた県の病院で、母は死んだ。
脳の病気で、詳しい病名まではわからなかったけど、病が発覚して、入院して、あっさり逝ってしまった。と、聞いた。
そんな一文が、長い旅の果てに得た結末の全てだった。
もうすぐ7回忌を迎える。
時期にして、アンナがこの施設に行き着く少し前の出来事だった。
会えるとか、
探しているとか、
生きているとか
どこかで話に行き違いが生じて、伝わってしまった事、アンナに期待を抱かせてしまった事、彼女は切に謝罪した。
無言だったアンナを相当ショックを受けていると思ったのだろう。いくつもの言葉で彼女は必死に励ましてくれた。
そんな彼女が逆に気の毒になり、アンナは短い謝罪を残して席を立ち、部屋を後にした。
呆けているのは、ただ、別の可能性の為に長い間悩み続けた脳が、突然空白の中に放り出され、目的を失ったから。
それだけだ。
・・・どうすればいい?
墓の前で泣けばいいのだろうか?
それとも、恨み言を言えばいいのか?
もう届きもしないのに・・・
母は、死んだ。
その一言が心に響く。けれどそれは、アンナの想像よりずっと薄い波紋しか残さなかった。
深い悲しみ慈しみを感じるには、あまりに長い時間が経ち過ぎた。
園の庭の古いベンチに腰をおろし、高い冬の空を見上げてみる。
息が白く残る。今日の日差しに雪は幾分溶け、雪どけ水の校庭で、頬を赤くした子供らが元気に走り回っている。
ここの子供達には、親がいるだろうか?一緒に暮せないだけだろうか。
母親・・・・、自分を産んだたった一人の女性
彼女がいたから、自分は産まれ、葉に会えた。
今ここにこうして生きている。
母の記憶なら・・・・涙
アンナが物心つく頃にはすでに、異常な家庭に悩み日々泣いていた母親・・・・母さん
そんな人生を望んでいたわけじゃないのに、不運な、不幸な人
決して嫌いだと思ったことはなかった、でも彼女は何度もアンナをぶった。
それで悪いものを退治できたらと言わんばかりに。
もっと記憶を遡れば、どこかに、笑ってる母の顔があるはず
たとえそれが、幼い自分が作り出した調子の良い幻影だったとしても
・・・もう一度会いたかった。
今、アンナは素直にそう思った。
会って、話したかった。
乗り越えたこと、葉と出会えたこと、人並みの生活をし、幸福と感じていると。
そして、謝りたかった。
母の人生を台無しにした罪を
気が済むのが自分だけでも、それが最後になっても拒否されても
どうか、もう怯えないでほしい
悩まないでほしい
忘れてほしい
忘れないでほしい
叶うなら触れてみたい
抱きしめてもらいたい
もらえなかった愛情を与えて欲しい
羨ましかった、妬ましかった。葉でさえ。自分だけ親がいない事寂しかった。
捨てたのは嘘だったと言って欲しかった
いいやそんなの、そんなの全部叶わなくても構わないから、
遠目でも一目、顔を見て、その姿を目に焼き付けておきたかった のに・・・
・・・でも、もう
すん、と鼻をならして、アンナは顔を上げた。
どうせ、
と思う。
どうせ、一度永遠に喪ったと思ったものが、やっぱり無かったと言われただけの話だ。
あの雪の日から、二度と会えないのはわかっていた。
とっくに泣きつくした。悲しみつくした。
実際、情けないのは、悲しみや喪失感の中に、確かな安堵が存在している事だ。
何が、区切りをつけるだ。
結局何もせず、傷つくことも戦うことも無く、勝手に終わってくれた現状にどこかでほっとしている。
情けない。冷たすぎる・・・。
けれど、肩の力が抜けるのは止められなかった。
もし、探せば写真の一枚も見つかるのだろうか。
いや・・・彼女が一度否定したあたしが、それを持つ事にどれだけの意味があるだろう?
もう、愛されることも赦されることもない。
これ以上はもはや進みようが無い。
どうしようもない。
子供達の声が甲高く響き、地面を物色していた雀が一斉に空に飛び立った。
追いかけて空の彼方を見やった。
日が翳り始め、時刻は夕方を、その先の深い夜を迎えようとしていた。
園長室に上着を置いてきてしまった。少し、肌寒くなってきた。まだ、冬。
一日が終わる。
そしてようやく悟った。
今、この旅は終わった。
挨拶をしてから、と園長室へ向かうついでに、施設内を歩き、昔の名残を探してみた。
ここでの罪を、過去を、もう少し思い出そう。身に刻んでいこう。
そうしなければならない気がしていた。
きっと、ここに来るのもこれが最後になるのだから。
行くとロビーに公衆電話があった。
昔はこんなもの無かった気がする。
果たして本当にそうだっただろうか。
自分はあまり部屋から出なかったし、その頃電話なんて、自分には縁のないものだった。
単に興味が無いから気に留めなかったのかもしれない。
かける相手も、かけてとるような相手もいなかった。
でも、今は違う。
右手で受話器をとった。
電話口で木乃に、全てを伝えた。
報告を急ぐ必要は無かったが、木乃が今も自分を案じていると気づかないほど幼くも無い。
木乃は、たっぷり間をおいて、それから短く、「そうかい」と言った。
また黙り込んで、次に口を開くと静かに続けた。
「それで、あんたの気はすんだのかい」
「・・・ええ」
実際は肩透かしを食らった気分で、すっきりしないと言えば、すっきりしない。
だが、いつまでも落ち込んでいる場合じゃないのはわかっている。
すると木乃が見透かすように同じ事を言った。
「そうしたらさっさと帰りな。今のあんたには別にやることがあるんだ」
「ええ」
木乃のぶっきらぼうで優しい言葉に、現在の生活を、同時に過去との決別を実感した。
違う、とうの昔に過去は過ぎ去っていた。
自分が後ろを向いていただけだ。それも随分長く。
懐古主義も大概にしなければ。
「そうだ、少し待っといで」
すると何やら受話器の遠くで言い合いが始まり、
受話器が下ろされたのか、ごとっと効果音が耳を突く。
耳を澄ませていると木乃の叱咤に紛れて、誰かもう一人の声が近付いてきた。
そしてもう一度ごとんと音がした後、
「・・・よぅ」
受話器から発せられたのは聞きなれた声だった。
アンナはぽかんと口を開けて、
「よ・・・葉!?あんた、何で・・・」
「いや、ほらよ・・・もうすぐ冬休みだろ・・・だからよ・・・たまには里帰りも・・・いいもんだろぅ・・・」
「馬鹿・・・」
しどろもどろの葉の後ろで木乃の笑い声がする。
アンナの方も嬉しいのか、照れくさいのかわからないが、勝手に顔が燃え上がる。
「もうすぐ冬休み」と言うが本当にもうすぐ、つまりまだ冬休みじゃない。
多少なりと気にかけてくれるだろうとは思っていたが、まさか学校休んでまで追いかけてくるとはさすがに予想しなかった。
そのうちばあちゃん向こう行ってろよと葉が珍しく声を大きくして、声が遠ざかるのを確認してから、息をついたのがわかった。
「で?」
「え?」
「用事は終わったんか?」
「・・・ええ」
「じゃ、さっさと帰れよ。ばあちゃんとうめえもん作って待ってっから」
「期待してるわ」
こちらでも変わらず家事を手伝わされてると思うと笑ってしまう。
葉。何で彼の声を聞くだけで、こんなに安心するんだろう。
「もう、あんまり心配かけんなよ・・・」
そう言われてようやくはっとした。
我に返ったと言っても良い。
葉は、アンナが相談も無しに、黙って出てきてしまった事を言っているのだ。
葉の声色からも、安心したとでも言いたげな脱力感が伝わってくる。
全てが終わった今、改めて今の自分を省みれば、そこにあるのは過去に溺れた挙句、散々葉を振り回した事実だけで。
ふんばりが丘でアンナが一番錯乱していた・・・時期にさえ、葉は詳しい事情など何一つ知らないまま、また何一つ聞かず、献身的にそばにいてくれたのだ。
なのに黙って出てきてしまった。葉に残したのはほんの数行の書置きだけ。
自分のしてしまった事をようやく理解しきった時、
「ごめん・・・なさい・・・」
消え入るように、勝手に口から単語が落ちた。
アンナが反省や気恥ずかしさで俯いている時、受話器の向こうで、葉は深く息をついて、微笑んだ。
「いいよ、アンナが帰ってくるなら」
お互い、珍しく、らしくない台詞を聞いたし、言ったと思った。
素直に思った事を言えるのは、お互いの顔が見えないからだろう。
電話で話すのなんて、いつぶりだろう。
もちろん一緒に住んで、四六時中そばにいるようになってからは、電話を使う機会はなかった。
そう考えれば考えるほど、現在の二人の距離が、いつになく離れているんだと実感させられた。
不安?
いいや、そんな事ない。だって今、葉は、夫は、同じ青森にいる。
帰れば会える。もうすぐだ。
「それにしてもお馬鹿ね、ほんと。心配性」
「うーん、今日は反論できんな」
優しい声、まるでそこにいて頭を撫でてくれているような。
――炎に帰らなくては。
確かな質量をもって、その決心が胸に響いた。
あたしの家がある。葉という家族がいる。
ご飯の準備して、家事をこなして、家を与えて心配して・・・まるで親のようだ。
父親というより母親かもしれない。あまりに似合いすぎて、声を殺して笑う。
安井旅館の廊下では、受話器から途端に漏れた笑い声に、葉が少し面食らってから唇の端をあげた。
久しぶりに笑い声を聞いた。良かった。
さて、主要な会話はそこで終わったのに、二人何故か受話器を置く事も、別れの言葉を切り出す事もできなかった。
「そういえば」とやがて葉が切り出して、炎の事だとか学校のことだとか会話がはじまった。
いつの間にか葉は廊下に座り込んで話していた。木乃が向こうでテレビを見ている。
他愛のない会話は、小銭を使い切るまで続き、ようやく受話器をおいた。
わかってる。お互い名残惜しかったのだ。
受話器を戻した途端、公衆電話はただの機械に戻った。
でも、今葉と交わした言葉の数々は、くすぐったいような彼の落ち着いた声の響きは、耳の奥に残っていた。
帰ろう。
帰って、葉に会おう。
顔を見ながら、くるくる変わる表情を見ながら、今の声をもっと聞きたい。
アンナは顔を上げると、まっすぐ廊下を歩き出した。
帰ろう。園長室に荷物を取りに行って、気の毒な園長に挨拶をして、あたしはもう大丈夫だと、気丈な顔で告げて、それで終わり
帰ったら、
木乃には自分のふがいなさを謝ろう。
そしてこっちにいる間は、しっかり嫁の貫禄を見せなければ。孝行しなければ。
葉には、修行ほったらかして来た事まず説教しよう。
最近、ちょっと弱みを見せすぎてしまった。
葉が調子に乗る前に、ここいらで、もう一度尻をひっぱたいておこう。
さっさと連れて帰って、地獄のメニューを組み立ててやろう。
元通りだわ。何もかも・・・
思わず口元がほころんでしまう。
本当にいつぶりの心の底からの笑顔だろう。
その前に、たまには、甘えてみようか。
帰り道は、列車の中は、葉と二人だ。
あの波打つ電線を遠い景色を二人で見れる。
きっと楽しいわ。
今度は一駅じゃない、その線路の終点まで、家に着くまで、その先も
ずっと隣に座っていられるから
そこが今のあたしの
「知ってるわよ、大きく取り上げられてたから」
「・・・怖いわね」
園長室のドアノブに向かって伸ばされた手が静止する。
部屋の中から漏れる声は・・・園長と、職員だろうか。・・・何の話かしら?
「あの子には伝えたの?」
「まさか、・・・ただでさえ亡くなったって聞いてショックを受けてたし・・・」
これは自分の話・・・、なの?
アンナは声が良く聞こえるように、もう一歩ドアに歩み寄った。
「父が生きてるうちに連絡をとらなかったのも、きっと事件の事を知られたくなかったからよ」
「怖がらせるだけでしょ、まだ中学生なんだから」
「気味の悪い事件だったからね」
「知らなきゃ知らないに越したことないと思うのよ」
「死に方なんて」
事件?死に方?・・・誰の?誰のよ
心臓が大きく打ち始める。
やがてこちらに歩いてくる足音が聞こえ、アンナは急いで柱の影に体を隠した。
ドアが開き、二人の大人が園長室から出てきた。
二人は会話を続けながら、隠れるアンナに気づくことなく、廊下の向こうへ消えて行った。
『帰ろう。園長室に荷物を取りに行って、気の毒な園長に挨拶をして、あたしはもう大丈夫だと、気丈な顔で告げて、それで終わり』
安井旅館で、葉と、木乃があたしの帰りをを待ってる。
荷物は出てきた時と変わらず、ソファの上にあった。
着てきた上着は、いつの間にか丁寧にハンガーにかけられて、壁にあった。
気の毒な園長先生が、どっちに歩いて行ったかも見ていた。
もう大丈夫だ。全部終わったから心配ないんだと、わかってる。
でも今、『気丈な顔』だけ、どうしてもできそうにない。
部屋の入り口に立ち尽くすアンナの前を、鬼がぺたぺたと歩いていく。
鬼は部屋に一つだけの大きな立派な机の前に行くと、するりと頭からその引き出しの中に消えてった。
・・・・・・葉
アンナは机の前に立つと、机の一番上の、横に長く平たい、引き出しの前面を、そっと指先で撫でた。
鉄の取っ手に爪がかかると、握って引いた。
引き出しの中には、整理された書類の数々と、いくつかのファイルが綺麗にしまわれていた。
その一番上に、まるで不釣合い極まりない様相で、
たった一枚の、変色しかけた新聞の切り抜きが、ぱらりと乗っかっていた。
手に取る。
紙っ切れ
ぱりと乾いた古い紙の上に、活字が躍っていた。
![]()
『14日深夜、A県のT大病院にて患者の失踪事件が起きた。
ガラスの割れる音を聞いたという患者のナースコールで看護婦が病室に向かったが
すでに患者の姿はなく、窓が割られ、部屋も荒れた状態だった。
翌日、むつ市の 恐 山
で患者と思われる 遺 体
が見つか
精神状態が極め 不安定な患者 自殺、事件 双方か また同署は 院の管理責任を
また同室の
患者が黒
い影 を見たと錯乱 。
』
記事の両端を握り締めて、文字列を見つめたまま、長い間、アンナはその場に立ち尽くしていた。
けらけらけら、と子鬼が印刷された活字の上で笑い転げている。
長い、長い空白の後、
いつしか、頭の中に一つの単語が現れた。
葉、
葉、
葉、
葉、
帰りたい・・・
再び、意識が、ない。
確か、あれは遠い昔の、冬だった。かじかんだ指先を膝の上で握り締めていた。
私は、外にいた。あまり詳しくは覚えてないけれど、確か、公園のベンチだった。
周りで、たくさんの子供が遊んでた。
突然、大人の手にバチンと思い切り頭を叩かれた。
衝撃で横を向いた頬に髪の毛がうっとうしく絡まる。
いいんだ。こうしてれば相手の顔を見なくてすむからあたしの泣き顔も見えないだろうから
さっき目の前で子供が一人躓いて転んだ。
膝を抱えて泣いていたら、その子の母親が飛んできた。
そしてただの背景だったはずのアンナを鋭い目で見、思い切り、その頭を殴ったのだ。
いくつもいくつも謂れのない事を罵倒され、
目を動かせば母親にしがみついて泣いている子供がいた。
その子を守るように抱いている一回り大きな掌も見えた。
言葉のどこかに癪に障る言葉があらわれ、ついにアンナは顔を上げ、目の前の親子を睨み付けた。
何年も、ひたすら相手に一方的に責められ、罵られてきたアンナが、初めて相手に憎しみをぶつけた瞬間だった。
殺意に溢れた目がそこにあった。
「母親?必要ない・・・」
「あの人は私を捨てた!」
「私だって親などいらない!!人もいらない!!みんなみんな死んでしまえばいい!!」
少女の勢いに圧倒され、ひるむ親子の反対側で・・・
アンナの背中から、一匹の鬼がするりと地面に降り立った。
身の丈にしてアンナと同等
鬼らしく無機質な目で、あたりを一通り見回すと、そのまま闇へ消えていった。
その時、冷える血から抜け出た影は、他の鬼のようにやがて消えたり、闇に溶けたりせずに、
ひたひたと街中を、どこまでも歩いていった。
人のないところでは、ほんの少し体は小さくなって、
賑やかな場所であれば、例えば人の溢れた繁華街なら、禍々しい体は膨らんで、また新たな影を背負って歩いていった。
どこまでも、どこまでも
そして49時間後、鬼はその鍵爪を、ガラス窓に向かって振り下ろした。
ガシャン!!!
彼女が目を開けた時、黒い影は腹の上にいた。
抵抗した?でもきっと敵いっこなく、むんずと漆黒の中鬼は彼女の首を掴んだ
そして、そして――――――――
「あんた・・・なの?」
色を亡くした唇から漏れる台詞。
その返答と、言わんばかりに乱暴に
人形を振り回すように中鬼はあの鉤爪でいとも容易く女を、布団から引きずりだすと、
割れた窓から夜の闇へ、同じ吹雪の中へ躍り出た
その時には鬼は姿を変えていた
小さい手に鍵爪だけを鈍く光らせた、少女の姿に変わっていた
少女は慣れない慣れない笑顔を、あどけない満面の笑みを浮かべて、うかべて、
連れてく
女は、美しい金髪を振り乱して、喉から搾り出すように、泣き叫ぶように悲鳴をあげた。
「あ・・・ッンナ・・・!!」
「アンナァァァぁぁああああ!!!」
後には雪ばかり 雪ばかり
残って、つま先に白銀
誰もまだ、踏みしめない積雪の
白さ、目眩を覚える
歌いながら並べた足跡は、一回り 大きくなった
降雪の下に埋めたものは決して訪れない 春が 来るまで秘められて
闇に雪の降りしきるこの風景、黄泉まで続く果てのない大地
あの世とこの世の境界線
懐かしい恐山
いつの間にか足下にあった。
頬を刺す冷気の感覚も甦り、アンナは僅かに、微笑んだ。
良かった、たどり着けた、戻ってこれた、安慮、失意、自失、この感情さえ全部、懐かしい。
あたしはここで死んだ
アンナは一歩一歩雪の中を歩き出した。
後ろから百鬼夜行のように鬼がついてくる。
雪に足をとられ、つんのめった。
頬に氷の粒がぶつかる。
そしたら、のん気な声色で、しもやけになるぞ、と言う葉の声が聞こえた、気がした。
涙が溢れて、氷の粒を溶かして消えた。
かあさん
あなたも、ここにいたの
鬼は鬼はね乱暴だから、
あなたを連れてここにきたら、雪の上に放りだしたんでしょう
知ってるわ、鬼は、鬼は意地悪で無情だから、
あなたの傍で最後まで笑っていたんでしょう
寒かったでしょう
怖かったでしょう
かあさん
かあさん
ごめんなさい
貴方の幸せを、その命を
あたしが、
あたしが・・・
あたしがこの手で・・・
ごめんなさいかあさんかあさんゆるしてゆるしてあたしあたしあたしそんなつもりじゃなかっかあさんかあさ
いや・・・・決して・・・
赦されるものか!!!!!!
・・・そう赦されるはずなどない
「アンナ・・・お前どうして」
畳の上に、転がったカッターナイフ。
「こんな事」
「だから・・・・」
呟くとアンナは体を起こした。
おかしいわね、昔はもっと早く、麻痺してくれたのに、雪に触れていた頬も、むき出しの手も痛いほど冷たくて熱くてたまらない。
瞬きの後、その人を目の前に見つけた。
優しく微笑んで、アンナと同じ色の髪を、肌をして、その人は雪の上に座っていた。
しなやかな腕を伸ばして、アンナの頭を、肩を抱き寄せた。
その人の肩に顔を埋めて、泣いた。言いたい事が山ほどあったはずなのに、何一つ言葉にできなかった。
痩せた肩は、凍る雪のにおいがした。
「母さん」
あたしは、区切りをつけるためにここにいる
全てを終わらせる為にここに来た
「会いに来たわ・・・母さん」
雪がまた強まってきた。
吹雪の中でアンナは確かに抱きしめられた。
真っ黒い鬼が、アンナを捕らえて放さなかった。
絶望と、恐怖と、幸福で、アンナの目から涙が溢れる。
「ただいま母さん」
木乃が再び腕を伸ばし、紙片を握るアンナの手を、その両手でしっかりと包み込んだ。
「馬鹿だね・・・」
鬼の腕がアンナを抱く。
何故だろう。また、意識が遠のいていく。
今度呑み込もうとしている暗黒は、
今までのどれより暗く、
何処よりも深く、
何時よりも愛しくて、寂しくて
アンナはそれでも、自分から腕を解くことさえせず、ただ空を仰いで泣いた。
変ねやっと会いたい人に会えたのに
何で涙が出るんだろ
もう、二度と、母さんはあたしを忘れない
触れてくれる
抱きしめてくれる
もらえなかった愛情を与えてくれる
羨ましかった、妬ましかった。
葉でさえ。自分だけ親がいない事寂しかった。
でももう一人じゃない
ずっと一緒にいてくれる。
でも、一つ叶わなかった。
母さん、
あなたの顔は・・・今も・・・・・・
「葉」
最後に、二文字だけ零れた。
その名前の意味するところが、
救済か
謝罪か
永別か
恋情か
わからなかった。
「・・・アンナ?」
その前に、たまには、甘えてみようか。
帰り道は、列車の中は、葉と二人だ。
あの波打つ電線を、遠い景色を二人で見れる。
葉
next→
****
後
お疲れ様でした。
毎度お待たせしております。
四でした。
上手くいって六で終わります・・・・
何でこんなに長く・・・
読んで頂き、誠にありがとうございました。
←back