アンナの

細い小指に、赤い血がつややかに線を描いていた

畳の上で空気を反射するように光った 次第に

その手首を握る葉の掌をも

見えないまま熱い液体が満たしていった

やがて指の間からあふれ出したそれは


今、


彼の小指の根元にも、

速く細く


深紅の線を結んだ





丁度




































のように








赤い赤い。












「葉くーん!!」

久々に見た友人の横顔に、まん太は大声をあげた。
げた箱の前でいつものサンダルとスリッパを取り替える名前の主は、ユルイ顔で声の主を見やった。

「おお、まん太。久しぶりだな」

小さな友の姿を確認した葉は、スリッパをひっかけるとゆるりと答えた。

「久しぶりじゃないよ!いや・・・久しぶりだけど、そうじゃなくって・・・!」

あー、と言葉のまとまらなさに頭をかきむしるまん太の前で、葉は思い切りあくびをした。

「3日も学校休んでおいて!連絡もないし、今日だってもう午後だよ!何してたのさ」

午後出勤をやらかしているくせに、昼休みの賑やかさの中、葉は依然大した焦りも見せず、
ただまん太の叱責に困ったように眉根を寄せた。

「おお・・・すまん」

「すまんじゃなくってさ・・!心配するじゃないか、アンナさんも来ないし・・・」

一瞬無表情だった葉の目が微かな反応を返したのを、まん太は気に止めなかった。

「今日も休みだったら様子見に行こうと思って・・・・・何かあったの?」

葉は言葉を選ぶように、唸り声を出す。
まん太はふと、その傍らを見回して、続けて聞いた。

「・・・アンナさんは?今日も、休み?」

見上げると、葉は苦笑いを返した。
不穏なものを感じたまん太は、さらに別の言葉を紡ごうとしたが、ほとんど同時にチャイムの音が鳴り響いた。

「おお、予鈴だぞ急げまん太」
「ちょ・・・!待ってよ葉君、一体何が・・・!」

そそくさと教室に向かう猫背を追って、まん太は言葉になりきらない問いを投げた。

葉はその日、ついに質問に答えることはなかった。
下校時も掃除当番のまん太を尻目に、軽い謝罪を残して一人でさっさと帰ってしまった。
箒を握りしめ、まん太はそんなそっけない友人への憤りより、何かが起こっているというぬるい不安を強く感じていた。

教室の真ん中に立ち尽くす小さい背の友人の姿を反芻しながら、葉は昇降口でサンダルを履いた。
顔を上げる頃には、目からゆるったさは消えていた。
足早に自宅への道を目指す。
学校の賑やかさはあっという間に遠くなる。
吹雪の中に駆け出すような気分を思った













:日々











手の下でHEIYUのビニール袋がカサカサ言う。
中に入っているのは主に夕飯の食材、あと明日の朝のもの。
分けて持つもう一つのビニール袋には、また別のものが入っていたけれど。

「ただいま」

引き戸を引くと、ガラガラといつもの音がした。
最近、この年季の入った民宿の古い玄関の戸は、立て付けの悪さが目立ち始めた。
閉めようとすると、中腹あたりでガタッと一度止まる。
直さねえとな、と思いながら、葉が力任せにガッタガタやっていると、不意に廊下に人の気配を感じた。
自覚もせずに振り向くと、漆黒のワンピースを着た、許婚が一人。
廊下の床板から、裸足の足が生えるように立っていた。

「ただいまアンナ」

言うと、

「おかえり」

アンナも目を細めた。

「また閉まらないの、それ」
「そうなんよ。そのうち竜に・・・」

と、ガタンという大きな音と共に戸が閉まった。

「そのうち壊れるわ」
「だよなあ・・・」

二人して無言のまま戸を見やった。ガラスには遠い昔のものだろうヒビが入っている。
ついでにボロい民宿の玄関を見回した。
一通り見るとお互いに目があった。

「ああ・・・ただいま」
「アンタそれ三回目」

そうだったかと言いながら廊下に上がる。

「で、どうだったのよ、学校」

アンナが即座に問いかけた。

「ああ、お前は成績良いからもうちょい休んでもいいってよ」
「あんたは」
「明日の放課後補習なんよ・・・」
「日頃の行いが悪いからよ」

ふんと得意げに笑うアンナを背に、葉は先を歩きながら付け足した。

「明日もなるべく早く帰れるようにはするけどな」

アンナはすっと視線を落とす。
その目の前に、がさっとビニール袋が突き出された。

「ほら、もってけ」
「嫌よめんどくさい・・、何であたしが」
「お前のだぞ」

小さい方のビニール袋を半ば押し付けるようにアンナに渡すと、葉は鞄を置きに二階への階段を上がった。
一人残されたアンナは、ビニール袋の中を見下ろし、目を丸くすると片手をつっこんだ。
取り出したのは赤い林檎だった。
良く熟していて、鼻に近づけると甘い香りがした。
それを片手にさらに袋の中を覗き込むと、透明なパッケージに包まれたせんべいが見えた。




「ありがとう」

葉が階下に戻ると、アンナは背中を向けたまま呟いた。
こたつの上には、せんべいと林檎が行儀よく並んでいた。
彼女がこっちを見ていないことはわかっていたけれど、照れくさくなった葉は何も言わずに首を振った。

「今食うんか」
「ええ」

アンナは指で転がしていた林檎の一つを、腕だけ伸ばして葉に手渡した。

その手首に、真新しい包帯があった。


脳が鮮やかに思い出す。



カッター。夕暮れ。握り締めた掌の下の鼓動。熱い。
適当に縛り付けた包帯が、見る間に染まって行く光景。
焦りすぎて3度押し間違えた病院の番号。

傍らですがるように手を握るアンナの顔は蒼白で、
葉と対照的に、おとなしく瞳を閉じていた。
それが怖くて何度も名前を呼んだ。


翌朝、眠りに付いたアンナを病院に残し、一人家に戻った葉は、
廊下まで転々と続いた赤い血を這いつくばって拭き取った

いつまでも

いつまでも


歯を食いしばって、








「葉」

はっと覚醒した頭を上げれば、アンナがこたつに埋まってこっちを見ていた。
赤ん坊のような澄んだ目を上目遣いにさせて、ぱちりと瞬きをした。

「やっぱり自分で剥くわ」
「でも、」

反射的に切り替えした頭に、赤い皮と蜜色の間に滑らせる、
鋭い刃の存在が不安となって過ぎった。
察したように、アンナがふっと笑った。

「大丈夫よ、あんたも食べるんでしょう」

こたつから抜け出したアンナは、リンゴの甘い香を残して、葉の横をすり抜けた。
リンゴの果実と同じ色の髪が、儚い蜜の香りのように、するりと肩を微かに撫でた。










最近のアンナは、
ほぼ、いつもと変わらない。


違うのは手首の包帯


絆創膏にさえ縁のないアンナだから
肌に寄り添う粗いガーゼの白い包帯は、嫌に目に付く。





何がアンナをそうさせたのか、葉は結局最後まで聞けなかった。

原因はきっと、自分から遠く離れているんだと
あの夕暮れの畳の上で、どこか遠くを見つめにじんだ、アンナの瞳に悟っていた。










「電気消して」

「ちょっと待てよ」

「そんなの明日読んだら」

「今いいとこなんよ」

「知らないわよ、もう消すから」


カチン


「あっ・・・ったく」

「おやすみ」

「しょうがねえなあ・・・」

背中合わせに横たわっても、どうせ何度目かの寝返りには向き合って、
葉が自然の流れで腕を回すと、アンナは頭を顎の下にもぐりこませる
でも甘えてるんじゃない
きっと顔を合わせるのが照れくさいだけなのだ。

薄く目を開くと、カーテンの隙間の月明かりで、ほのかに光る金髪が見える。


「アンナ」

腕の中にいるのに、存在はひどくあやふやで、
葉の口は独りでに名前を呼んでいた。
思えばあの日から何度名前を呼んでるだろう。

「アンナあ、寝ちまったか」

「・・・寝たわ」

「おお、そっか・・・すまん」





変わったのは
一人で寝かせたらうなされたから
毎夜同じ布団に入るようになった事



ほっといたらフラフラとどっかに行ってしまいそうなアンナを、
止めるように抱きしめてみるけれど、
アンナは腕の中でさえ、また遠くを見ていた
葉にしがみつく手も、流れていきそうな自分を圧し止めるためのものでしかなかった











炎のまだ新しい電話が鳴ったのは、二日後のことだった。

耳を劈く旧式のぢりりんという呼び出し音に、こたつの中で、うつら夢の中をさ迷っていたアンナはゆるりと目を開いた。
名残惜しくこたつを出ると、億劫さに、たどり着く前に切れてしまえば良いのにと思いながら廊下に出た。

受話器を取って耳に当てると、お決まりの文句を口に出す前に、相手の声が耳をついた。


「アンナはいるかい」


開けた口を、
静かに閉じて
アンナはふうと息をついた。

「木乃、何よ」

「おや、珍しいね。お前が電話に出るなんて」

「別に・・・そんなことないわ・・・何か用なの」

何気ない台詞。
しかし途端に、木乃は口をつぐんだ。

「・・・・どうしたのよ・・・木乃?」

アンナはふと思った。
葉が気を回して、自分の怪我の事を木乃に連絡したのかもしれないと。

できれば知られたくなかった。要らぬ心配などさせたくなかったから・・・
しかし、一度知れてしまったのなら仕方ない。取り繕う言葉を瞬時に思い巡らせた。

「葉とは仲良くやってるかい、アンナ」

木乃の言い放った言葉は、全ての予想を覆すものだった。
遠い下北では、平和な日々が続いていることを伝えていた。この大騒動を、何も知らない、木乃。
アンナは拍子抜けしながらも、心の中でまず、アンナの気持ちを察してか
話を必要以上に大きくしなかった自分の旦那を見直した。

「まあね」

「その割には風邪でもひいたみたいな声を出してるじゃないか」

思わずアンナは苦笑う。
元気のなさはあっさり見抜く。さすが木乃だった。

「・・・ご名答、風邪気味よ」

できるだけ気丈な声をあげてみた。演技じゃなかったかもしれない。
久しぶりの木乃との会話を、純粋に喜んでいるアンナが確かにいた。

「それで、何なのよ。あたしを名指しなんて珍しいじゃないの」

木乃は、受話器の前で皺の縁取る口を結んだ。
恐山の寂れた旅館の廊下に立ち、黒電話の横で使わない片方の手は固く拳を結んでいた。

「アンナ」
「なァに」

少し間延びした声を出してみる。電話が、楽しい。

「お前の強さは良く知っているよ」

木乃の声はしゃがれていて、でもいつもはっきりと力強く、そして温かい。

「・・・これでもお前を、何年も育ててきたんだからね」

そう人生で一番長く、一番多くこの声を聞いてきた。
笑い声も。叱る声も、悲しむ声も全て

「だが・・・これは、強さ如何でどうこうできる問題じゃない」

こんな風に、たまに思いつめたような・・・
声も・・・


「・・・・・木乃?」


「お前の思うようにすればいい」


「何の話・・・」

話が、見えない。
見えない。まるで、あの日の・・・・・涙の・・・・・・ように


「アンナ」









「母親に会いたいかい」











音声がぷつりと遮断された
滑り落ちると思った受話器は耳の横で凍りついた







過去が・・・・


追いついてくる。
















木乃は言った。



『昨日電話が来た お前が昔いた所から』

『詳しいことは分からない・・・でも』

『お前を探しているらしい』

『もし会いたいと』

『少しでも思うなら一度こっちにおいで』




遠い昔、走って逃げて、すっかり乗り越えたと思っていた
けれど過去は変わらず存在していて、ずっとずっと自分を追いかけていた

そう街中ですれ違うほど近くまで
電話をかけるほど近くまで


そして今、もう、そこまで来てる。



『悩むなら、葉と良く相談してご覧』



木乃は最後にそう付け足した。
相談は、結局一度もしなかった。















:記憶











吹雪の中、泣いて泣いて泣きつくして
号泣が燃え上がらせた熱さえ。
雪の冷たさに覆い尽くされて。
体中の皮膚が冷気に粟立った頃。

アンナは空を見上げた

ちらちらと

舞うようになった雪が

次々と

降り注ぐ



きっと防衛本能

極寒から小さな少女を救い出そうと、五感は次々忘却の彼方に手放され

残ったのは、
脳裏に映し出される、小さな、夢と憧れの日々。
ああ、なんて明るい。温かい。



思い出に沈むには幼い脳裏を
行き交う
笑顔はたった一人のものでしか、なかった







                 かあさん




てをにぎってくれるあたたかいひと



                                   はなのようにやさしいえがお


    うたのようなやわらかなこえ

                              あなたのすんだめもほほえむくちも
 
  ひざしのようにあたたかいうでのなかも


                                            なでてくれるゆびも


ひとつのこらず ぜんぶ


                  あたしはいつもあこがれいた すきだったの



                            ・・・・ねえ



こみ上げる声にならない叫びを搾り出すように口を開く。氷の飛礫が喉まで降る
果てしない白い大地
静かになった辺りと対照的に
涙が頬を次々と滝にして。





                                  あたしもいつか、かあさんみたいになれる?



                                  あたしもいつか、かあさんみたいになれる?



                                                  ・・・ねえかあさん




心の中、もう二度と、会えないと悟った人の名を、
届かないと知りながら、何度も、何度も呼んだ。



「母さん」





・・・・・けもの」


「化け物!!!!」

「いやあああああ!!!!」

「あの子、捨てられてたんでしょう」

「読んでるのね!!顔にかいてある!!」

「この化け物!!何でお前が産まれたの・・・!!」

「死んじゃうよ・・・!!やだあああ!!」かあさんはとてもきれい

「―さん!!!!いやああああ」かあさんのかみはあたしとおんなじいろ

「助けて!!やああああ!!―あさん!!!」あたしもいつか「約束よ」「ああああ!!!」
「得体が知れないってことでしょ」いつかかあさんみたいに「あたしのせいじゃない!!!!」「振り払え!!」
「お前はまた読むのね・・・!!!」「騒ぐなよ」「化け物!!!!」いつか・・・「助けて」「近寄るな!!!」「お前は・・・あたしなの?」「私には子供なんていなかったのよ!!!」「あああ!!助けて・・・!!!」「捨てなければ」「あああああああ!!!!」「重くなったな」「産んでない!!!」「あああああ」「置いていかないで・・・・!!!」「ごめんなさい・・」「早くだして!!!」



「か あ さ・・・・・・・・・・





ぐいっと、肩を掴まれた。

数々の情景をさ迷っていたアンナの目前に、見慣れた葉の顔が割り込んだ。

葉・・・・・?

アンナの足の下がじゃりっと言った。


・・・ここは?


見れば、前に立つ葉の足にはいつもの便所サンダルがあった。
だが、アンナの足には何もなく、土と小石の感触を直に感じて、足の裏は冷え切って・・・痛い

ふと、辺りを見回す。暗闇に沈む景色。
ここは、炎から少し離れた畦道だった。
遠い闇の中に、灯りの一つ無い民家の列が黒いシルエットとなって浮かび上がっている。

「葉・・・?」

未だ状況を呑み込めず、アンナはぼんやりと目の前の葉をを見つめる。
葉は呆然とするアンナの肩に熱い両手を置いて、息を整えながら顔を俯かせた。
そのこめかみから、汗が流れ、地面に落ちる。
一緒に布団に入った時と同じ浴衣、その不器用な帯の結び目も、・・さっき、隣で布団に包まった時と・・・同じ・・・なのに。
変なの、何であんた・・・そんな格好で、こんな所に・・・・・・
冷えた野外の空気に、お互いの息が白く溶けた。


あ・・・


ようやく全てを理解し、アンナは俯く葉を見つめた。どう言えばいいか、わからない。


「アンナ・・・、」

名前を呼ぶと、抱き寄せた。
それ以上、「探した」とも「心配した」とも言わなかった。
背中を抱く強い力が全てを語っていた。
肩に葉の頭の重さを感じていた。耳に触れる汗が冷たい。


ああ・・・あたしは

あたしは・・・・


謝らなければ、と思った時


「すまん、遅くなっちまったな」


泣き出しそうなアンナをあやすように、耳の横で葉が言葉を紡いだ。



「もっと早く見つけてやれなくて悪かった」



途端に涙が溢れ出す。


「よう」



ぽたりと雫が葉の肩に落ちて、吸い込まれていった。
嗚咽を上げて泣き出すアンナの髪を撫でて、葉は一言「帰るぞ」と言い聞かせた


















満月は厚い雲に隠され、月明かりはもう道を照らすことはなかった


裸足のアンナをおぶって、葉は弱い電灯の照らす道を歩いた
滔々と果てしなく、闇の中へ消える細い道を行く。
木々が夜空を背に黒い影となって、鬼の手のように風に揺れている。
街頭の影にも、田の中にも、潜む闇が隠れている
少し油断しようものなら、あっと言う間に追いついて、宙で揺れるアンナの足を掴むだろう


一歩一歩、踏みしめて歩く。
下駄はカランコロン小石を踏む
背中は温かくてアンナは軽かった。
子守唄でも歌ってやろうかと思ったが思いつかず、適当にボブを歌ってたらうるさいと呟かれた。







漸く家についた頃には、背中のアンナは寝息を立てていた。
畳の上に寝かせて、傍らに腰を降ろす。
こちらを向く寝顔は、無垢で子供のようだった。
浴衣から伸びる足は、土と砂に汚れていた

洗わねえと。

葉はぼんやりあぐらをかいて思った。
片手が知らずにアンナの軽く閉じた掌を弄んで握る。

起こして風呂場に連れて行くのが一番手っ取り早い
起こそう。3回呼んで起きなかったらタオルを濡らして持ってくればいい

思いつつも腰を上げる気にならず、黙って許婚の寝顔を見下ろす。
と、アンナの首筋で何かが動いた。
畳に落ちる金色の髪が僅かに揺れる。
何気なく指を伸ばした時


するりと、親指程の黒い子鬼が、畳の上に這い出た。


鬼は蜥蜴のように、い草の上を斜めに這い、1メートル行く間に徐々に薄くなり
やがて黒煙のごとく、かき消えた。


数年ぶりに見た鬼だった。
葉は目を開いたまま鬼の消えた場所を見つめていた。
傍らに視線を戻す。

アンナは相変わらず瞳を閉じていた。白い肌が蛍光灯の下でさえ温かにまぶしい。
だが、その首筋のわずかな髪の乱れが、今の光景を現実だと何より強く叩きつけていた。


アンナ。


手首にはまじないのように白い布が縛られ
閉じたまつげの隙間に、今も微かな涙の名残が残っている。

暗い畦道、余所余所しい街頭の下で、抱きしめた。
裸足のアンナは小さくて、抱き合うと彼女の口が肩にあたった
身体をかがめると胸に包めそうな気がした
おぶった身体は軽くてずっと華奢だった








握った手に、きつく力を込める。


胸が苦しい。


葉は膝を向いて目を伏せた。





















状況は何も変わらないまま、
二日が過ぎた。

縁側の柱に寄りかかって、アンナは庭を見つめていた。
庭では葉が374回目のスクワットをしている。肩に担いだバーベルが昼の日に黒々と輝く。
ぼんやりと一日を浪費するのも、もう何日目になるのだろう。

随分大掛かりな休暇になっちゃったわ、と小さな声がぽつりと口をついた。
学校に行ったら気が晴れるだろうか。
身体の調子は幾分いい。失った血も、もう再生されてる頃だろう。

「学校、行こうかしら」
「大丈夫なんか」

葉が386回を数えながら返事をした。

「あんたって心配性ね、小心者って言うのかしら」
「別にオイラとしては、お前が平気だってんなら学校行ってくれる方が助かるぞ」
「どうしてよ」

うーん、と葉は言葉をにごした。

「・・・離れてた方が気になるんよ」

ほのかに、アンナは頬が染まるのを感じた。

「あっそ・・・やっぱり心配性じゃない」

それとも過保護なのかなんなのか。
葉は何食わぬ顔で397を数える。
400までいくと、一時中断、はー、と深呼吸をして、またすぐ残りの100回に取り掛かった。


そうだ。この休暇をいつまで続けるかも、いい加減決めなければならないのに。
日々、思い返す言葉は、たった一つ


『母親に会いたいかい』


考えても、考えても。
自分がどうすべきか、どうしたいのかさえ、分からなかった。


何故?

今になって
あの日・・・あの人は確かにあたしを・・・・雪の中に。

会ってどうするのよ?
あの人は・・・・、あたしをどうしたいの・・・・


また、捨てるの?



考えて、答えが出るはずもなかった。
堂々巡りに行き着く先もなく。
アンナは淡々と数を増やしていく葉を眺めた。

日差し、まぶしいくらい。
小春日和と呼ぶのだろう。温かい日。
普段は寒い寒いと言っている葉だけど、今日は暑い暑いと言っている。
汗が潔いほどにぽったぽたと次々地面に飲まれる。
めずらしく、真面目にやってる。

「なー」

見つめていた横顔が、視線をこっちへ投げた。

「なによ」

「夕飯っ、何にする?」

スクワットを続けながら。

「そうね・・・」

あら、気が利く質問じゃない、と思いかけたところで

「ものは、相談なんだが、・・・カレー、食いたくねえか」

あたしはぴくりと顔をしかめた。

「なるほどね・・・・」

落ち着き払ったあたしの声に、葉がいきなり背筋をのばす。

「あんた、夕飯まで昨日の残りのカレーですますつもりだったの。へー、そう。楽なものね」

「いや・・・」

「もう朝、昼もあのカレー食べたけど。大事な許婚に、4食も?カレーばっかり食べさせるっていうのね。ふーん、いい度胸じゃない」

「カレーは寝かせるとうま・・・」

「決めたわ。今日の夕飯は水炊きよ。よろしくね」

「うぃ・・・」

はー、とため息をつきながら、でも不思議とどこか楽しそうに、葉は返事をしてスクワットを続けた。

さて、500回、終わったら、今日はもう許してやろう。
アンナは縁側で立てた膝を抱えた。
葉はこの前に、すでに電気イス1時間を終えている。
彼に言わせれば、『暑い』中、ご苦労様と言ったところ。

「500っ」

課せられた回数を終え、葉はフラフラと縁側に戻り、アンナの足の横にあったペットボトルをとってごくごく飲んだ。

「お疲れ様」
「おお」

真っ黒い前髪が額にはりついている。
それがふと、他の誰かを彷彿とさせて、アンナはふと問いかけた。

「・・・茎子は、今どうしてるの」
「ん?」

思いがけない人物の名前に、葉は首をひねってアンナを見た。
背中を柱に預けて、アンナは体育座りをしていた。少し太もものあたりが際どい。それはともかく・・

「母ちゃんか?さあー・・・何やってるんかなあ」
「それでいいものなの?」
「まあ、元気にやってんだろ、たまおやじいちゃんと」
「たまには、会いたくなったりしないの」
「そりゃ・・・、でも、会おうと思えばいつでも会えるしな」

葉はまたペットボトルの水を飲んだ。
アンナはそんな葉の顔を眺める。会話から得たものはほぼ何もなかった。
けれど、涼しげで整った顔をした母親の茎子の面影は、確かに息子の葉にも受け継がれている。
面影。思ってまたチクリと心の深みが痛んだ。


あの人は今どんな顔をしているんだろうか?

目を伏せても、ぼんやりとしか見えない。

あれだけ、毎日憧れて・・・・
確かに・・・・好き・・・・だったのに。


会いたいの?


別のアンナが問いかける。


わからないわ

ただ一つわかるのは、「いつでも会える」わけではないのだ。
今を逃したら・・・もう。

でも。

吹雪。
そして幼い自分の、悲鳴。
忘れられない絶望。


今はとにかく


・・・・怖い。





その時、とんとペットボトルが床に置かれた。

「うしっ」

葉は立ち上がると伸びをした。

「次は何だよ?」

一瞬何の話かわからず、アンナは目を丸くした。

「言わんなら勝手にやるぞ」

葉はアンナに背を向けると、さっさと準備運動をはじめた。




その夜も並んで寝ると、アンナの質問を皮切りに家族の話を少しした。
幹久や茎子の話。
特に深くもならない些細な思い出話だった。
アンナの意図が、葉の頭にもほんの少し分かり始めた頃、アンナは目を瞑ってしまった。
葉は電気のひもに手を伸ばした。
暗い中で目が慣れるまでしばらくアンナの寝顔を見つめていたが、そのうち自分も目を閉じた。



















また今日も、アンナは昔の夢を見た。
逃れられない暗い闇から走って逃げていた。
いよいよ追いつかれるという時に、ようやくそれが夢だと気づいた。
自分が寝ていると無理矢理思い出し、夢の名残を引き剥がすように目を開いた。

自分を包む布団の白と、壁まで延びる畳の床が見えた。
夢だ。ほっと胸をなでおろした。
もう辺りは明るかった。

葉。

すがるような気分で寝返りをうつ。

だが、期待した姿は、隣にはなかった。










階段を降りて、物音に誘われるように玄関に向かった。

「おお、もう起きたんか」

廊下に腰を降ろしていた葉は、振り向いて言った。
外で雀が鳴いている。さっき見た時計は6:25を指していた。

「おはよう」

葉はいつも通りのユルい笑顔で言った。
肩にかけたタオルで額の汗を拭う。

「こんな早く起きるなんて珍しいじゃねえか」

アンナは立ち上がって廊下を歩き始めた葉の後を追った。
飯ちょっと待っとれよー、と言いながら葉は台所に入ると冷蔵庫を開けて麦茶を出した。

「何してるのよ」
「喉が渇いちまって」
「違うわよ、何してたのよ」
「ああ・・・走ってたんよ」

聞くまでもなかった。

「なんか目が覚めちまってな」

葉は麦茶を片手にタオルで首を拭いた。

「何でよ・・・」

アンナは眉を寄せて呟いた。

今まで、言われても疲れる事は散々渋ってたアンタが。
尻を叩いてようやくのろのろやってたアンタが。

葉はアンナの方をちらりと見ると、手元で朝ごはんの準備をしながら口をとがらせた。
返事を求めるアンナから目を逸らしたまま、呟いた。

「・・・もっと強くなっとかんといかんだろ」

心臓を掴まれたようだった。
アンナの心が、正体のわからない感情で波打った。

この、男は―・・・
あたしが、弱ってるから?
しらじらしく、真面目に修行なんかしちゃって。

Tシャツの背中が、汗で染みになってる。
アンナはきゅっと唇を噛む。
この感情、この心の昂ぶり。
これは、・・・・これは苛立ちだ。
ムカつく。

何調子乗ってるのよ。
あんたなんか、あたしを守るには100年早いのよ・・・!

けれど、

ビンタのために振り上げようとした手は、葉の背中の前で止まった。




「どうしたんよ」


背中にしがみついてきた彼女に言いながら、葉は鍋に水を張った。

「何だよ、またおぶってほしいんか」
「違うわよおバカ。死ね」

すると葉はウェッヘッへとのんきに笑った。

「おお、そういう方がアンナらしいぞ」



























:帰路
















平日の昼すぎ、ふんばりが丘駅前は多くの人で賑わっていた。
バスがロータリーに到着して、乗客を次々に降ろした。

全員が降りきったと思った頃、数秒遅れで少女が一人、ステップから地面に降り立った。

真っ赤なマフラーを巻いた彼女は小さい荷物を片手に、しばらくそこに立っていた。
唇から落ちた吐息は真っ白だ。


冷たい風が金色の短い髪の毛を揺らした。



アンナはまっすぐ前を向いて、一人駅の中へ踏み出した。






































next

***


のらくらと参。実は本来の予定としてた参の前編。
あと2話で恐らく終わると良いと思っています。

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